いつもより早く学校に来ると教室には既に人がいて、またそれがかの有名な仁王雅治君だったものだから私は驚いて固まってしまった。誰もいないと思って勢いよく引いたドアがサッシを滑る大きな音が廊下に響く。

「入らんの?」

ちらりと横目で見てくる仁王君の声にはっと我に返り慌ててドアを閉めた。さも当然のように柳生君の席に座っている仁王君の隣をなるべく静かに通り抜け、自分の机に鞄を置く。仁王君は何をするでもなくただ腰掛けているだけのようだ。何故ここに。そういえば彼は柳生君とダブルスを組んでいるのだと聞いたことがある。きっと待っているのだろう。
勝手に納得して机の中からプリントを取り出した。とりあえず私はこれを終わらさなければならない。広げた瞬間昨日帰りがけにこれを手渡してきた数学教師の顔が思い出され溜息をついた。まあ、この前のテストで最悪な点数を取ってしまったのも持って帰ってやらなかったのも自業自得なんだから、早く終わらせてしまおう。
さほど難しくもない空欄を一つ一つ埋めていき、全て埋め終わって顔を上げると始業時間よりはまだ余裕のある時計が目に入った。消しゴムのカスを軽く払って立ち上がりドアへ向かう。すると、仁王君も席を立ちテニスバッグを背負って着いてきた。

「俺ももう行くわ」

はあ。わざわざ宣言されても何と返せばいいか非常に困るのだが。答えあぐねていると「お前さんは?」と聞かれた。

「職員室。出さなきゃいけない課題があるから」
「大変じゃの」

仁王君は全然そうは思ってないような口調で言い、私とは反対方向へ歩いていった。底の磨り減ったスリッパの音だけが反響していた。





「よ、おはようさん」
「…もうお昼なんだけど」
「気にしなさんな」

それが私と仁王君とのファーストコンタクトだった。それから仁王君は何かにつけて声を掛けて来るようになった。ふらりと現れては一言二言声を掛けて去っていく。私はその意図が全く掴めずいつも突然な彼の出現に驚くばかりである。
ふらふらと何処かへ向かう仁王君の背中を、隣にいた友人が思いっきり私の袖を引いた。

「え、名前あんたいつから仁王君と知り合いになったの!?」

顔に興奮と興味がありありと表れている。そういえばこの子はテニス部の熱烈なファンで、私が仁王君のフルネームやダブルス事情やその他の功績を知っているのは、毎日新鮮な情報を一方的にもたらしてくれる彼女のおかげなのだ。もの凄い勢いで詰め寄ってくる彼女に私は苦笑を返すしかできない。この奇妙な関係はなんと説明すればいいのだろうか。知り合いと呼ぶのも何だか違うような気がする。そもそも向こうは単なる気まぐれで私の名前すら知らないかもしれないのだ。
毎回出会う度に胸に残るのは驚きと疑問と、首をほんの少しばかり捻る程度の違和感。しかしその原因を私は確かめる術を持たない。なぜなら私も彼のことを全くと言っていいほど知らないからである。





今日は何となく違う方向から帰ってみよう。ふとそう思い、ローファーを履いて東門へ足を向けた。部活をする活発な声がそこら中でざわめいている中、一歩一歩近づくごとに断続的で軽快な音が大きくなっていく。確かこっちにはテニス部のコートがあるんだったけ。だとしたら時々聞こえる高い声は見学の女子生徒のものだろうか。騒がしいファンの応援に頭を悩ませているという話を聞いたことがあるが、これくらいなら可愛いものじゃないか。あれほどまでに友人を虜にしてしまう噂のテニス部が一体どんなものか一度拝見させて頂こうと、高いフェンスから少し離れた後ろで立ち止まってコート内に目を向けると、一際輝く銀髪が揺らめいた。あ、仁王君だ。丁度ダブルスの試合が終わったところらしく、審判が仁王君ペアの勝利をを告げる。フェンスに群がる女の子達の歓声が大きくなった。その声にタオルを首に掛けた仁王君がちらりとこちらを見遣る。不意に向けられた切れ長の瞳が、偶然だろう、私を捕らえた。

その瞬間、女の子達の金切り声が聞こえなくなるほど、右肩に掛けた鞄の重さを忘れてしまうほど、呼吸さえ忘れるほど、私の全てが、完全に停止した。私の体だけが何処か別の空間に縫いつけられたかのように、指先一ミリさえも動かせなくなった。脳全体に膜が張られたように意識が、思考が霞んでいく中、頭の芯だけが、氷の結晶が成長していく様子を高速再生していく映像のように急速に冷えていった。

時間にすればきっと百分の一秒にも満たない。一瞬だけ絡み合った視線は振り切られるようにして途切れ、仁王君はコートを出て行った。私はその後ろ姿が消えていく方向を、次の試合が始まるまでずっと見つめていた。





「柳生君」

柳生君は歩みを止め、優雅な動作で振り返った。同じクラスである柳生君と話すのは初めてだ。紳士であるという噂に違わず私に向ける表情はとても柔らかいが、瞳は窓から差し込む西日に光る眼鏡に阻まれて見えない。様々な人が談笑しながら私達の横を通り抜けていく。柳生君は一向に用件を言おうとしない私を不審がるような、心配するような顔で首を傾けた。

「何か御用ですか?」

私は網膜を突き刺す鋭い反射に目を細めながらも、レンズを見つめた。柳生君の眉がさらに下がった。

「ううん、別に何でもないの。呼び止めてごめんね」

柳生君は私の曖昧な言葉に嫌な顔一つせず微笑んだ。

「ええ、お気になさらないで下さい」

柳生君の返事を全部聞き終わる前に、私は背を向け走り出した。驚いて私を見る人達を次々に避けながら、スカートがたなびくのもリボンが傾くのも気にせずどんどん速度を上げた。曲がり角でちらりと後ろを盗み見ると、柳生君はまだそこに立っていた。






「おはようさん」
「おはよう」

今日も仁王君は何食わぬ顔で私に話しかけてくる。私はそれに笑顔で答えた。仁王君はちょっと目を見開いたが、すぐに口の両端を笑顔の形に曲げて擦れ違っていった。

あれから柳生君とは話していない。元々何の接点もないただのクラスメイトというだけで、ひょっとしたら卒業するまで一度も口を聞かない可能性だってあったのだ。あの一回が最初で最後なのかもしれない。
仁王君の後ろ姿を見送った後、勢いよくドアを開けてまだ誰もいない教室を見渡してみる。空っぽの中に、大きなテニスバッグだけが真ん中で存在を主張していた。小さく綺麗な字で柳生、と書いてあるのに私が気付かないとでも思っているのだろうか。


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