「真に素晴らしい絵は全ての概念を超越する」

とかつて私の師匠だった人間は言った。それから私は持てる限りの全ての時間をキャンバスに塗料を塗りたくる作業につぎ込んだ。初めて完成した私の絵を見た師匠はいい顔をせず、渋々出品を許された展覧会では酷評を受けた。「稚拙だ」「技巧がまるでない」「これは芸術と呼ぶには程遠い代物だ」絵画とは自分の内面から湧き上がる何かを思うがままぶつけ表現する手段なのだと解釈していた私にとってそれらの言葉は酷く不本意であり、まるで自己を否定されたかのような感覚がした。その夜私は考えた。大衆に媚びるため、審査員に賛美される為の技巧など必要であろうか。それは一時の名声の為には確かに必要なものかもしれない。しかし、普遍的な芸術という存在においては、その技巧こそがまさしく稚拙で幼稚なものなのではないだろうか。私は描きたいものを描くことに決めた。これはと思う出来のものは度々展覧会にも出品した。酷評は止まず、師匠からは破門を言い渡された。それでも構わなかった。私は絵を描き続けた。




***

何も得るものはないからと、作品を他人の目に晒すのを止めにしたが、たった一つだけ印象に残ったことがある。

「アーティさんの作品は、見ていると時間を忘れてしまうの。それに比べて貴女の絵は…」

最初の展覧会で言われた言葉だ。うっとりと呟いた婦人は、自らの時間を一方的に奪った作品に怒りを覚えるどころか、心底傾倒しているかのような口ぶりだった。彼女は私の作品を一瞥するなり眉間に皺を作って足早に去ったが、微かに聞こえたその前半部が今でも心の片隅に染みを作って消えない。




***

描き上がった絵は基本的に屋外に放置している。部屋の侵食を防ぐためもあるが、私にとって描くという行為自体が重要であり出来上がった作品そのものにはさして価値があるとは思えないというのが大きな理由だ。今日も今日とて徹夜で仕上げた作品をイーゼルから外し外に出る。今までのものと並べて立て掛けてある様は中々に滑稽だ。随分溜まったから、いい加減処分しなければならない。薪くらいにはなるだろうか。

「ねえ、そんなところに置くと絵が傷んじゃうよ」

振り向けば、初めての展覧会でフラッシュに囲まれていた顔があった。

「アーティ…さん」
「あっ僕のこと知ってるの?嬉しいなあ」

へにゃりとした笑みを浮かべたアーティさんは、突然の来訪者に警戒する私に気兼ねする様子も無く、無造作に捨て置かれた作品群を撫でる。朝露に濡れたキャンバス布から雫が落ちた。数か月前の物だと思われるその絵は風雨に晒され、表面は剥がれ木枠は腐食してしまっている。

「折角描いたのにこんなにボロボロにしちゃったらもったいないよう」
「…生憎ですが、私は作品を残すことに興味はないんです」

垂れがちな目を丸くしたアーティさんは顎に手を当てて何やら逡巡した後、私の右手に掴まれたまだ絵の具の乾き切っていない絵を指差した。

「じゃあ、それ僕に頂戴」
「はあ…こんなもので宜しければ」
「ありがとう」

決して小さいとは言えないキャンバスを両手に抱えて去って行くのを見送る。不思議なこともあるものだ。暫く呆然としていたが、パレットに絞り出したままの絵の具があるのを思い出して慌てて家に帰った。




***

アーティさんの訪問はその後も何度か続いた。かと言ってどこぞの批評家のように説教くさい講釈を垂れる訳ではなく、主にお茶を飲んだり他愛ない世間話に花を咲かせる程度で、ごく稀に私の完成させた作品について感想を述べるぐらいだった。アーティさんは顔が広いらしく、半ば隠棲しているかのような私に街での様々な情報を教えてくれた。いわば世間と私を繋ぐ窓口である。私はアーティさんが来る度土産にと持って来る菓子が好きだ。彼の姉の手作りらしいそれはとても優しい味がする。いつの間にか、何となくアーティさんが来そうな日には筆を置いて紅茶を用意するのが決まりになっていた。




***

万人に受ける為に施す技巧は浅はかな子ども騙しに似ている、という私の意見に、蜂蜜をたっぷり入れた紅茶を掻きまわすアーティさんは何度も頷いた。アーティさんが大規模な絵画展で入賞した次の日のことだ。

「僕もね、実はああいうのってあんまり好きじゃないんだ」

「芸術に優劣なんてないのにねえ」とのんびり漏らす人気画家は、装飾過多な芸術には食傷気味のようだ。口元でカップを傾け髪を揺らして笑う。

「名前ちゃんの淹れてくれる紅茶はいっつも美味しい」
「ありがとうございます」

毎回新しい茶葉を仕入れている手間も報われるというものだ。相変わらず美味な手土産を頬張る。そのまま最近の美術界への愚痴を繰り広げようとするアーティさんに、尋ねるのは今しかないと感じ指先にに僅かな力を込めた。「一つ聞いてもいいですか?」「どうぞ」

「以前、アーティさんの作品を見ていると時間を忘れると言った人がいました。私の師匠だった人は、真の芸術は概念を超越するものだと言いました。アーティさんの作品は見る者に時間という概念を超越させるのです。私にはどうすればそのような作品が描けるのか分かりません」
「ううん、そうだなあ…」

暫くアーティさんは唸っていたが、やがて閃いたのか顔を上げた。

「自分の描きたいものを描けばいいんだよ」

それは既に常日頃から実践している。しかし私の描いた絵は私から時間を奪うばかりで、他人の足は一分ですら留めることが出来ない。そう伝えるとアーティさんは「なんて言うのかなあ…」と首を捻った。

「ただ、本当に描きたいものだけじゃ駄目なんだ。それだと唯の自己完結で終わっちゃうから。だから、一番大事なのは、見る人に何かを伝えたいっていう気持ちかな。うん、気持ちだよ気持ち!」

何度も嬉しそうに繰り返すアーティさんに頭を殴られたような気分だった。「自己完結」という四文字が胃の中でぐるぐると回る。ソーサーを持つ手が震えた。

「…アーティさん」
「ん?」
「明日…また来て下さいますか」
「うん、分かった」

アーティさんが帰った後、アトリエに駆け込んだ。今までは見向きもしなかった色のチューブを握る。大きく息を吸い込んで油壺に筆を浸した。




***

正午過ぎにアーティさんはやって来た。

アーティさんが至るところに絵の具が飛び散る私のアトリエに足を踏み入れる。たった今描き上がったばかりの絵はイーゼルの上で昼間の太陽を浴びて光っていた。今まで使ったことの無い色彩で彩られたその絵は私が追求してきた芸術とは程遠いけれども、きっとこれまでの作品とは違う「何か」が有るはずだ。否、有ればいい。無言でキャンバスを見つめる後姿に声を掛ける。

「どうでしょうか。この、絵は」

振り返ったアーティさんはにっこりと微笑んだ。

「とっても素敵な作品だね」


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