そのころの私は酷く憂鬱だった。会う度怒鳴ってくる真田や復帰した幸村君の無言の圧力が原因ではない。ただ、やること見ること全てだるくて、以前私の感性に訴えかけてきたどんなファッション雑誌、CD、そしてテニスですらも、面白いとは思えなくなっていた。
その日も、私は曇天の空のような心を抱えながら、重い足を引きずって昼ご飯を買うために学校の途中のコンビニに入った。ここは最近の私の最も好きな店である。道から少し外れているせいか、騒がしくたむろする生徒が少なく、店員もそれなりに愛想がいい。私は様々なパンが並べてある棚の間をすり抜けて、飲み物のコーナーを目指した。無難にスポーツドリンクを選んでレジへ行こうとした時、通路の端に、ぽつんと籠に入れられている蜜柑を見つけた。小さな袋に小分けにされた蜜柑は、安っぽい蛍光灯の光を受けててかてかと輝いていた。私はそれを手に取った。小さな私の手に収まるほどの大きさ。手の平にぴったりくる重さに丸み。太陽を丸ごと吸い込んだような橙。私は、これまでどんなものをもってしても晴れないと思っていた私の心を覆う厚い雲が、モーゼの十戒の海のごとく音を立てて割れていくのを感じた。私は迷うことなく蜜柑を買い物籠に入れた。
店員の声に見送られコンビニから一歩踏み出す頃には、私の心から憂鬱は綺麗さっぱり消え去っていた。私はなんだかとても楽しくなって、鼻歌を歌って、スキップをしながら空を見た。ビルの隙間から見た空は、雲一つない快晴だった。私は、左手にぶら下がっているビニール袋から蜜柑を取り出した。蜜柑は日の光を受け、さっきよりも美しく輝いていた。つまりはこの重さなんだ、と思った。 この右手の重さこそが、私から憂鬱やら鬱憤やらを全て取り去ってくれる世界のあらゆるものを集め一つにした重さなのだ、とスケールの大きなことを考えた。そんな馬鹿げた考えに全面的に納得してしまうくらい、私は幸福だった。
やがて学校に到着し、教室へ入ろうとすると、屋上へ続く階段が目に入った。そこは、私が常日頃避けていた場所だった。しかし私は、今日は入ってやろう、と思った。私は開きかけたドアをそのままに方向転換し、薄暗くて埃っぽい段差を一歩一歩踏みしめ、チャイムの音と共に勢い良く錆び付いた扉を開いた。目的の人物は口を半開きにしてフェンス越しの空を見つめていた。私はずかずかと近づいていった。そして、袋から蜜柑を取り出してそいつの頭上に高々と翳して、力の限り握り潰した。冷たい感触と同時に細かい実が指の間から漏れ、瑞々しい香りを含んだ気体と汁が辺りに飛び散った。果汁の洗礼を受けた仁王は髪とワイシャツを橙色に染めながら目を見開いて声を出せなかった。私は大いに声を出して笑った。仁王は動けず髪の先から橙を滴らせていた。
梶井基次郎「檸檬」リスペクト
101002