俺が名前に会ったのは引っ越してきたばかりの時だった。自分より柔らかくてゼンマイ仕掛けのような動きをするこの小さな小さな生き物を初めて見た時、幼心に俺が守ってやらなくてはならないと思った。そして元々外の世界にあまり興味を示す方ではなかった自分がこんな感情を持ったことに自分自身でも驚いた。庇護欲だとか母性本能だとかそんなものだろうと言われればそれまでだが、俺のこの感情は後にも先にも彼女のみに適用されるものだった。つまるところ、俺は彼女に、世間一般で言うところの一目惚れをしたのだった。幼稚な初恋。そしてこの恋のために俺は彼女に接触し彼女に一番近い異性であらしめようと手段と努力の限りを尽くした。


俺と彼女は同じ幼稚園に通うことになっていた。俺は目を覚ませばすぐに彼女のことを思い浮かべ、朝食を掻き込み家を飛び出して隣の家のインターフォンを押し、手を繋いで登校した後は片時も離れることなく過ごし、また手に手を取って帰路についた。彼女の生活に自分の存在を刻みつけようと必死だった。そのまま生活の一部になってしまおうと思った。「雅治くんは名前ちゃんのお兄さんみたいね」彼女の手を引く俺を見た大人達のその言葉がとても不快だった。あの頃俺は今より感情を表情や行動に表す人間だったので、目を離した隙に彼女と楽しげに話しかけた同級生に掴みかかり喧嘩になった時があった。酷く怒られて理由を尋ねられても答えなかった。たとえ俺の勝手な嫉妬心から来る行動であったとしても、原因が彼女にあると知られたくなかった。保育士に叱られている俺を少し離れて心配そうな瞳で見つめる彼女を見た瞬間、俺はこれから先この世のあらゆる負の側面から彼女を保護することを決めた。



幼稚園が小学校になった。俺の存在がだんだん彼女とその周囲に知れ渡り、長い期間の間にじわじわと浸透していった。男女が入り混じる低学年でも、異性を認識し始める高学年でも、俺は決して気を抜かなかった。ただ今まで通りに俺と彼女の間の日常を享受していくだけだった。お互いに交友関係がどれだけ広がろうとも、周りにどれほど感化されようとも、俺と彼女の関係は変わらなかった。「名前ちゃんって仁王君と付き合ってるの?」ませた女子の好奇の視線を笑って否定し続けた。俺にとって彼氏彼女なんて言葉で済ませられるほど軽い関係ではなかった。俺と彼女は前世から出会うことが義務付けられており魂から惹かれ合う運命なのだと、本気でそう思っていた。



小学校が中学校になった。俺の存在は彼女にとって当たり前になり、彼女に一番近い異性という地位を完全に確立した。俺はこの地位に執着し、誰にも明け渡すことなく守り続けていた。しかしながら、不変かと思われたこの関係性は徐々に蝕まれていった。彼女はよく俺の前で泣くようになった。遠慮も無しに上がり込んだ俺のベッドの上で、何度も潰えた恋に泣いた。「私にはまーくんがいればいいの」彼女は言った。しかし次の瞬間同じ口で恨みがましく自嘲的な笑みを浮かべ言うのだ。「でもそのせいで何度も振られてるんだけどね」




「彼女に一番近い異性」とは、周囲から俺に向けられた評価であった。彼女の中で俺は彼女に一番近い「にんげん」だった。異性でも同性でもない一人の人間だった。俺は今になって初めてそれに気付かされた。そして気付いた時にはもう遅かった。彼女の中ではそれが当たり前のものになり決して変えることのできない不動の地位として確立されていた。俺は深く絶望した。何度も何度もこの関係を打破しようと試みた。しかし積み重ねてきた年月を容易に覆せる訳がなかった。なぜなら俺は今まで、このどんな力を以てしても崩れない関係を作るために生きてきたのだから。






「仁王君、帰りましょう」

後ろで柳生が何度目かも分からない台詞を呟いた。自分が濡れるのにも構わずにしゃがみ込む俺に傘を差し掛けてくれている。ありがたく感じると同時に、どうしようもない怒りや嫌悪や悲しみやその他諸々の感情が湧き上がってきて顔を伏せた。こんな顔でああ帰ろうと振り返ることができるはずがない。どれほどこうしているのだろうかと考えることは、爪先に感覚が無くなったあたりから放棄した。先程彼女から送られてきたメール。タイトルはなく本文に一言だけ『帰ったら家に遊びに行くね』。帰りたくない。柳生は何を言っても無駄だと諦めたのか、声を掛けることを止めた。ふと、傘が傾いた。

「ほら、名字さんが来ましたよ」

タッタッと独特のリズムで地を蹴る音がだんだんと近づいてくる。きっと小走りで来たのだろう。少し上がった息遣いが鮮明に聞こえてきた。水たまりを踏む足音は俺の前で止まり、目に入る赤い花模様の長靴。彼女のお気に入りのものである。

「では、仁王君をよろしくお願いします」

彼女は俺の頭の上で元気な返事をした。それに安心したのか柳生は「また明日」と俺に声を掛けてから帰っていった。規則正しい足音が遠ざかっていく。

「まーくん、帰ろう」

彼女は子どもを宥めるような声色で言う。その声に弱い俺は動きたくないと叫ぶ心を腹の奥で頑丈な紐でぐるぐる巻きにして膝から顔を上げた。目の前の地面から伸びている俺の青い傘を辿って見上げた彼女の視線は、俺ではなくは柳生が去っていった道を見つめていた。雨音がとても憎い。俺はまだ帰りたくない。


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