『前略、名字名前様


貴女が此の手紙を読んでいる頃、私は遠く離れた地に居ります。貴女が一昼夜駆けようとも辿り着く事の出来ない、遠い遠い場所です。其処で私は見知らぬ土地の風を感じながら、此の手紙に目を通しているであろう貴女の姿を思い浮かべている事でしょう。少し長くなるかもしれませんが、どうか最後まで読んで頂きたいと思います。

先程忍務を仰せつかりました。詳しい事はお教え出来ませんが、戻れる可能性は低いだろうとの事です。承る旨を伝えながら頭を下げていた時は、半人前ながらも私の忍としての力量が認められているのだと嬉しく思って居りました。しかし斯うして部屋で一人になった今、不意に頭を擡げた言いようの無い恐怖にじわじわと胸を侵食され始めているという事に気が付いたのです。そして其の恐怖の根源を探った時、真っ先に思い浮かんだのは貴女の顔でした。

私は臆病な人間です。死が怖いのではない。貴女に忘れられる事だけが恐ろしい。私が去った後、貴女は私の居ない場所で、私の知らない人間と共に、私の見たことが無い表情で、喜び、怒り、泣き、笑うのでしょう。此れから先、一本に続く長い路のように果ての無い時間の中で、私の不在が日常に溶け込んで往く過程で、貴女の経験する出来事に、私が存在することは出来ないと云う現実。貴女が私の居ない瞬間を積み重ねる内に、咲き始めた桜の蕾を指差し微笑み合ったあの日の柔らかい日射し、汗を流しながら必死に駆けた夏の空気の匂い、屋根の上から見た燃えるような夕焼けの赤、焔硝蔵の凍てつく冷たさ、触れた指先の温もり、私と過ごした思い出全てが記憶の底に埋もれ、何時か貴女に私の存在を完全に忘れ去られてしまう事が、私にとって、死よりも、何よりも、恐ろしいのです。

今、東の空で朝告げ鳥が啼きました。空はまだ星を宿していると云うのに。嗚呼、もう時間が無い。

私は貴女に忘れ去られる事を一等恐れていると、既に申し上げました。ですが、私は貴女に常哀しみに浸り、私との記憶に想いを馳せ、懐旧の念を抱いて欲しいと言う心算は毛頭御座いませんし、また申し上げた言葉の数々は、そのような意味をもつ物では有りません。唯、私が貴女を愛していた。此の事実だけを、心の片隅で覚えていて欲しいのです。そして、一年後、五年後、十年後、何十年後だって良い、ふとした瞬間に、思い出して欲しいのです。此れが、私のたった一つの、最期の望みです。

私久々知兵助は、名字名前を愛していました。心の底から、愛していました。

願わくば貴女の未来に幸多からん事を。


久々知兵助』





夜明け前、私の部屋に音も無く忍び込んだ気配に気付かなかった訳ではなかった。しかしその日私は長期に渡る実習訓練を終えたばかりで、泥のように重い体を引き摺り、這うようにしてやっと布団に辿り着いたところだったのだ。折角微睡み始めた時分に自ら睡魔を振り払うこともあるまい。そう思い私は指先一つ動かしもしないまま、暗闇に紛れ消えていく黒い影を背中で感じていた。

結局私が手紙を発見したのは太陽が高く昇った昼過ぎで、達筆な字で私の名が記されたそれは、枕元から少し離れた畳の上に置かれていた。封を切り広げれば、まだ乾ききっていない墨の匂いが鼻を突いた。宛名同様美しい手で流れるように続いている文章。その冒頭から順に目を通し、最後の行まで読み終えた瞬間、私は普段から久々知と行動を共にしていた五年生達の下へ走っていた。久々知は何処か。彼らを捕まえ居場所を尋ねても、返って来る言葉は決まっていた。今日は見ていない。そう語る曖昧な笑顔の中の、言い知れぬ悲哀の色に、私は頭が必死に肯定を拒んでいた現実を漸く受け入れることが出来た。去っていく彼らの後ろ姿を眺めながら、懐の中に入れた手紙を装束の上から強く押さえ、目を閉じた。

これは、遺書だ。



部屋の真ん中で一人、私は手紙を読む。一つ一つの文字に触れながら、すっかり乾ききった紙が擦れる音を聞きながら、久々知は一体何を思ってこの手紙を書いたのか、どんな気持ちでこの文字を綴っていたのか、永遠に出ることの無い答えを、愛の意味を、私に残された時間の中で考え続けるのだ。

三週間経っても、久々知はまだ帰って来ない。


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