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街外れの古びた公園に澄んだ歌声が響き渡っていた。それに共鳴するかの様に風がそよぎ、木々が嬉しそうに揺れる。


この場に居るのは俺と目を瞑って静かに歌を口ずさむモニカの二人だけ。
モニカの歌声は本当に綺麗だ、惚れてる贔屓目を差し引いたってそう言える。

と言うかモニカの歌声を聞いた事があるならば誰しもそう答えるだろう、聞いた事があるならだけど。


何が恥ずかしいのか分からないがモニカはまず人前では歌わないし、歌うのは両親と俺を含む幼馴染みと親友二人と、まぁ…心を許した人物の前だけなのだ。

だから、こうしてモニカの歌を外で聞けるのは滅多にない事な訳で。
ゆっくり瞼を閉じて歌声に意識を集中する。この幸せを噛みしめるのも悪くないよな。




だけどこの時、

モニカを歌声を聞いていたのが俺達だけではなかったんだと、その時の俺は気づくハズも無かったんだ。



(迫られた選択を前に、)



「スレイン・ウィルダー」



公園でモニカの歌を聞いてから数日経った頃。
俺達のクラスに普段来ない人が来た。


教頭のゲルハルト・オーヴェル先生。


生徒会に入ってるか、素行が相当悪くないと普段関わらない先生だ。
ちなみにグレイは今でも希に世話になっているらしい。だから俺の隣の席に座ってる今も自然と視線を逸らしている。


滅多に立たないであろう教壇に堂々と立ち、しかも何でか俺を呼んでいる。クラスメートの視線が一気に俺に集まった。
恐る恐る立ち上がると、先生が俺を一瞥する。



「……話がある、着いて来なさい」



それだけ言って先生は教壇を降り教室から出ていった。着いて来いと言われた以上行かない訳には行かないよなぁ、怖いけど。

よくあんな怖い先生と渡り合えるもんだと双子の弟に感心して視線を向けるが、我関せずといった感じで携帯をいじっていた。

クラスメートに一体何を仕出かしたんだと声かけられけど、思い当たる事なんかあるハズない。苦笑いで首を横に振って俺も教室を出た。



てっきり指導室にでも行くのかと思ったけど、先生が向かっていたのは校舎の外れにある今は使われていない旧音楽室だった。

いつも鍵がかけられているハズなのに今日は先生の手であっさり開けられた。前もって開けておいたのだろうか。

閉めきられていた音楽室は埃っぽくて、見るからに古いピアノが一台とボロボロの机と椅子だけが並ぶ寂しい場所だった。

俺が入ったのを確認して先生はドアを閉めた、しかも鍵までしっかりと。…何で閉めたんだろう、そんな事を緊張感でいっぱいな頭の片隅で考えていたら先生がおもむろに口を開いた。



「まず確認させてもらおう、お前は初等部のモニカ・アレンと交際しているんだな?」
「…へ?」



何でモニカの名前が今出てくるんだ?と言うか何で付き合ってる事を確認されてるんだ?
……よく分からないけど素直に答えるしかない、よな。



「……はい、でもそれが一体…?」



俺の答えに先生は一度頷き、俺の横を通り抜け様に呟いた。



「ふむ、ならば彼女に海外留学の話が上がっている事を知っていたか?」



頭が一瞬真っ白になる。


海外留学?

誰が?ドコに?


モニカはそんな事…一言も言ってなかった。



「海外…留学…?」
「そうだ。先日この街にとある世界的音楽家がお忍びで訪問していてな、偶々通りかかった公園で聞いたらしい…彼女の歌声を」



あの時の事か。
まさか近くにそんな人が居たなんて気づかなかった。



「その音楽家というのが私の古くからの友人でね、彼の耳が確かなのは私もよく知っている。その彼が彼女を是非本場で歌い手として育てたいと言っているんだよ」



先生が古いピアノの前に立って開きっぱなしだった鍵盤にゆっくり指を這わせ、着いた埃をそっと息で吹き飛ばした。



「しかし困った事に彼女はそれを断っているのだ、ご両親も本人の意見を尊重するとしか言わないし…本当に困ったものだ」



断っていると言う事実を聞いて胸を撫で下ろそうとした俺の心情を見抜くみたいに、先生の剣先の様に鋭い視線が俺を射抜く。



「何故彼女は断ったのだろうね?誰が見ても了承するのが当たり前だと言うのに。彼女は何に拘っているのだろうか…冷静で倫理的な思考を持つ彼女ならば了承するのが利口だと分かっている筈なのに、だ」



……あぁ、先生が言いたい事が分かった。だからもうそれ以上言わないで下さい、もういい。

先生の視線から逃げる様に俯く、そんな事で逃げられる訳ないのに。



「……恋は盲目、とはよく言ったものだな。愛情は時に人を惑わせてしまう、そう彼女の様に」



俯いて垂れた前髪のおかげで先生の姿は見えないのに、逃げられない。本当は今すぐにでも走って逃げ出したいのに、それが出来ない。

思わず目を強く閉じる。
瞬間、瞼の裏にモニカの顔が過った。


この前の公園で歌っていたモニカの嬉しそうな横顔。


そうだ、モニカは歌う事が好きなんだ。それを口に出した事はなかったけど、ずっと一緒に居た俺なら分かる。

歌っている時のモニカは嬉しそうで、楽しそうで、生き生きしているから。


だったらやっぱり、

やっぱり…モニカは歌を学んで来るべきなんじゃないか?



…ポーンッ

ピアノの鍵盤から音程の僅かにずれた音が響く、調律なんかされていないから当たり前だ。



「せっかく生まれ持った才能も使わなければ意味はない、そのまま何もせずにおくと…」



ゲルハルト先生の振り下ろした手が鍵盤を叩き付け、耳障りな不快な不協和音を生み出す。


…その音がやけに耳に響く。

もう嫌だ、何も聞きたくない。
この耳を手で覆って塞いでしまえるのなら、どんなにいいだろう。



「このピアノの様に使い物にならなくなってしまう」



もういい…分かってるから、

何でモニカが留学の話を断っているか。先生はきっとこう思っているんだろう、それは…俺という“恋人”が居るからだって。

俺が…モニカの足枷になってるって、そう言いたいんだろ?


先生達がいくら言ったってモニカはきっと意思を変えないだろうから。

だから俺を呼び出したんでしょう?



「……賢い君なら分かるだろう?」



分かってる。


モニカの持っているその才能の凄さも、

どうしてモニカが留学を断ったのかも、

俺がモニカの未来の為にするべき事も、



「彼女が選ぶべき道がどれか、君がすべき事が何かを…ね」



先生が去り際に俺の肩に手を乗せる、念を押す様に。

そんな事されなくても…もう、分かってるのに。



「私は彼女からの良い返事を期待しているよ、ウィルダー」



そんな台詞を残して先生はドアの鍵を開け、悠然と立ち去っていった。
古い音楽室には俺一人が取り残された。


いくら先生の気配が遠ざかって行っても、

午後の授業開始のチャイムが鳴り響いても、


……俺はその場から足を動かす事が出来なかった。


・Next・

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続きます。

スレインは賢いからモニカの『為に』なる事を優先する気でいます。多分先生に諭されなくてもその結論に至りました。