深夜11時の団欒 - 1/2
コピックペンと定規を手に、さっきから何度も慎重に同じ色を重ね続けている。一瞬でも集中力が途切れれば、鮮やかなブルーは枠からはみ出してしまうことは分かっていた。 必死に練って決めた、紙の上に広がる理想の家とインテリアは、この数日をかけた自信作だ。最後の最後で、今更失敗なんて絶対に嫌だ!
『…っ、出来たー!完璧!ねえ見て、潤くん!』
「はは、さっきから見てるって。すげー集中力だったな、杏奈。お疲れ。コーヒー飲む?それとも紅茶?」
『コーヒー!もう、ほんと疲れた〜!』
「そっちはー?コーヒーでいいなら、一緒に淹れるけどー」
キッチンに立つ潤くんがピンクと紫のマグカップを食器棚から取り出した後、ソファに向かって少し大きめに声をかける。 そこには、テレビを占領してゲームをする和兄ぃと、それを隣で眺めながら、笑ったり文句を言ったりしている雅兄ぃが居た。
「あー、うん。お願ぁーい」
「俺もー!」
「オッケー。兄貴は?」
和兄ぃがテレビ画面から一瞬たりとも目を離すことなく返事をし(その代わり、手は忙しなく動いている)、雅兄ぃは笑って見せる。 そして潤くんは最後に、ダイニングテーブルを挟んで私の目の前に座る智くんに、同じように声をかけた。 でも、自分の作業に没頭してしまっているのか、返事はなかなか返ってこず、仕方なく私がテーブルの上をトントンと叩いて、改めてコーヒーに誘う。 既にキッチンカウンターには、グリーン、イエロー、紫、ピンクのマグカップが、食器棚からブルーが出てくるのを並んで待っていた。
『…智くーん?潤くんが訊いてるよ。コーヒー飲む?』
「え…?ごめん、何?」
『コーヒー。飲む?』
「あ、うん。ありがとね、潤。飲むよ」
『だって』
「了解」
その言葉を合図に、ブルーのカップが無事に仲間入りを果たし、潤くんが美味しいコーヒーを淹れる為の準備を始める。でも、だからと言って、それで全メンバーが揃ったわけじゃない。 見ると、時計の短針は既に11時を指していた。
「つーか、兄貴。コーヒー飲むのは分かったけど、その前にテーブルの上片付けて、その真っ黒な手と爪洗ってきてもらわないと。申し訳ないけど、ちょっと見るに堪えないわ」
「んなこと言われても…」
『ふふ。別に、それは今日中に仕上げなくてもいいんでしょ?残りは明日にしたらいいんじゃない?』
「いや、それ以前に、その爪のまま、明日パン作るのとか有り得ないし。クレームどころか、保健所から衛星検査来るでしょ、絶対」
潤くんの厳しい意見に、智くんと一緒に、智くんの手をマジマジと観察する。 確かに樹脂のせいで真っ黒になったその手と爪は、ちょっとばかり…ううん。かなり、限度を超えているかも知れない。
「そっか。それで営業停止になるのは困るな…。手ぇ洗ってくるね、俺」
そう言ってゆっくりと席を立ち、バスルームへ向かう。
色々と説明することが多くなる私たち兄妹の中でも(複雑すぎる家庭事情故、だ)長男である智くんのことは、一段と説明するのが難しい。 今みたいに、手を真っ黒にするほどフィギュアを作ったり、絵を描いたりしているかと思えば、毎朝パンを焼いて売っていたりする。 そのパン屋も、朝しかパンは焼かないし、売り切れば即店仕舞い。ランチの時間前に閉店することは常で、そうじゃなくても、飽きると閉めてしまうこともある。 おかげで妹の私も、個展をやるほどのアート関係の仕事とパン屋、どちらが智くんの本業なのか、正直未だによく分からない。もし、分かっていることがあるとすればそれは……、
「ただいまー」
『! 、翔ちゃん、お帰りー!』
智くんがバスルームへ消えて数分後(樹脂を洗い流すのは時間がかかる)、玄関の鍵をガチャガチャと鳴らしたと思えば、すぐにリビングのドアも開く。 瞬間、微かに薬品の匂いが広がった。
「あっ、翔ちゃんお帰り〜!」
「お帰り、翔ちゃん。お疲れー」
「うん、ただいま。そっちもお疲れ」
「翔くん、お帰り。晩飯食べた?ポトフだったら、すぐに用意出来るけど」
「あ、マジで?全然食べる暇無かったんだよ〜。助かる。サンキューな、潤」
「温めるだけだから、平気」
全員が、たった今帰ってきたばかりの翔ちゃんに声をかけ、あらかじめ用意しておいたポトフの鍋を、潤くんが温め直す。 そして、ソファの横に通常より多めの荷物を置いた後、ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めながら、翔ちゃんはダイニングテーブルの真ん中の席に着いた。
『ふふ。翔ちゃん、お医者さんの匂いー』
「はは。何それ?」
我が家の次男、翔ちゃんは総合病院に勤める、小児科医のお医者さんだ。日祝日関係無く、ほとんど毎日、朝から晩までひっきりなしに働く。 大黒柱であるはずの長男が、信じられないほどのマイペースさを発揮出来ているのも、6人という大所帯で生活出来ているのも、偏にそんな翔ちゃんのおかげだった。 なんてったって翔ちゃんは、家計の8割を担う、文句無しの稼ぎ頭。夜の11時に全員が起きて待っているのは、そんな日々の感謝もあってのことなのだ。
「あーっ!」
「『!』」
「お前、邪魔すんなって言ってんだろ、さっきから!っ、翔ちゃん、マジでこいつのこと何とかして!」
「ちょ…!お前とかこいつとか、おかしいだろーが!俺の方が年上だからな、言っとくけど!絶対大丈夫だから、ちょっと俺にもやらせろって!」
「そう言って、何回失敗したと思ってんだよ、お前!」
この時間に全員が揃っているのは、翔ちゃんの為。でも、この時間にここまで賑やかなのは、雅兄ぃの異常なまでのテンションの高さが原因。 最初に大きな声を出したのは和兄ぃでも、雅兄ぃさえ静かにしていれば、こんなことにはならないと思う。
「ほんっと相変わらずテンション高いのな〜、雅紀たちは…。ずっとあんな調子?」
『うん。ご飯食べてから、ずっとやってる。和兄ぃが、予約してた今日発売のゲーム買ってきたみたい』
「ふーん。杏奈は何してたの?それ課題?」
『うん、良い感じでしょ!ついさっき、やっと完成したの!』
翔ちゃんに出来上がったばかりのパースを披露しつつ、散らかったままのテーブルの上を片付けていく。 自分の分はともかく、翔ちゃんの隣に広がる、智くんの物をどうすればいいか迷っていると、ようやく本人が戻って来る。
「あ…、翔くんお帰り。帰ってたんだ」
「うん、ただいま。ついさっきね」
「杏奈ー、お湯沸いたからカップ温めて。翔くん、サラダもあるけど食べれる?」
「あ、うんうん。食べる食べる」
言われた通りにカップにお湯を入れる手伝いをしていると、潤くんが隣でポトフの鍋を確認しながら、サラダを用意していく。 さり気なくこなしてはいるけれど、我が家のこのヘルシーなメニューは、潤くんが毎晩遅く帰って来る翔ちゃんを考慮して作っているもの。潤くんは、兄妹の中で一番の料理人だ。 でも、鮮やかな手つきとは裏腹に、本人が専門としていることは料理関係じゃない。
「杏奈、髪伸びてきたな。今度の休みにでも切ってやろーか?伸ばしたいんだったら、揃えてやるし」
『ほんと!?最近、前髪が目にかかってきてうざったいの。色も明るくしたいなー!』
「うーん、染めんのはちょっと面倒なんだけど…。まあ、もうそろそろ暖かくなってくるし、全体的に軽くした方がいいかもね」
翔ちゃんもだいぶ忙しいけれど、美容師として働く潤くんも負けてはいない。 勤めるお店での指名はナンバーワンだし(こんな言い方するとホストみたいだけど)、月に何回かは、テレビや雑誌撮影でヘアメイクの担当をすることもある。 ストイックな仕事ぶりと、確かなセンス。加えて潤くんのルックスの良さもあってか、メディアに取り上げられることも珍しくない。おかげで定期的な休みはあっても、潤くんの周りは常に賑やかな気がした。 そんな人気美容師に、予約も無しに髪を切ってもらえるのは、家族だからこその特権だと思う。
「だぁーっ!お前らマジでいい加減にしろって!」
『!』
「いつまで子供みたいにコントローラーの取り合いしてんだよ!?うっせーぞ!」
コーヒーを用意していると、翔ちゃんがソファで騒ぐ2人を見兼ねて注意する声が、部屋中に響いた。 もしかしたら和兄ぃは、ゲームプレイ時間よりも、雅兄ぃと言い合っている時間の方が長いかも知れない。
「いや、だって翔ちゃん!こいつね、」
「あーそうだ、潤くーん?俺、明日は夕食いらないわ。オーディションがあって、遅くなるかもだし」
「ちょっ…!何、普通に遮ってんだって!?ねえ、だからね?翔ちゃん、」
「オッケー。会場遠いの?また主役?」
「おい!潤も聴けって俺の話!」
「うん、まあ余裕だけどね?絶対受かっちゃうだろーし」
「はは!さすが」
「っ、翔ちゃんも無視すんなっつーの!もお〜っ!」
相変わらずゲームをしながら(雅兄ぃからコントローラーは奪い取った)和兄ぃは私たちにニヤリと笑って見せる。 そんな和兄ぃは舞台を中心に活動する役者で、所属する劇団自体は小さくとも、客演やら何やらで、自身の活躍はめざましい。演劇マニアの友達は和兄ぃが私のお兄ちゃんだと知って、本気で羨ましがっていた。 そういう意味では、一番の稼ぎ頭になれる可能性を秘めているのは、和兄ぃなんだと思う。本人がどこまで上を目指しているのかは知らないけど。
「ねえ、マジで俺の話聴いてる!?」
「んははは。聴いてませーん」
「っ、聴いてるでしょ!?聴こえてるはずだろ!?おい!」
『ふふっ』
そして、こんな風に和兄ぃに邪魔をされ、最終的に雅兄ぃの主張がスルーされてしまうのは、もはやいつものことだった。 話を聴いていないわけじゃないし、言っていることも分かっているはずなのに、わざと和兄ぃと潤くんはからかうような真似をする。 雅兄ぃが敢えてそれにノってくれているのか、本気で真意に気付いていないのかはともかく、このパターンに慣れていることは確かだ。そうじゃなきゃ、これほど早く切り替えられないと思う。
「あっ!ねえ、そーいえば潤さ、今度【Brave】っていう雑誌のヘアメイク頼まれてない?」
「されてるけど…。何で知ってんの?」
さっきまでのやり取りは忘れたみたいに、雅兄ぃがキラキラとした瞳を潤くんに向ける。既に、姿勢も表情も完全に前のめりだ。
「やっぱり!だって、俺もスタイリング任されてるから!ひゃひゃ、やったね!コラボレート、つって!」
「……」
「雅紀…。潤は凄く嫌そうな顔してるぞ…」
「そりゃそーでしょう。仕事が増えたんだから」
「はははは!」
「おい!だからおかしいだろって、それ!最高のコラボになるって、絶対!」
潤くんがヘアメイクのスペシャリストなら、雅兄ぃはファッションのスペシャリスト。流行の先を読み、一番オシャレなコーディネートを提供するスタイリストさんだ。 家ではみんなにからかわれていても、センスは文句無しに抜群だし、雑誌を開けば雅兄ぃがスタイリングした服で溢れている。その仕事ぶりが評価されているのは、一目瞭然。 何より雅兄ぃの場合、頭の中で無理にイメージして、あれこれ考える必要は無かった。モデルさんよりモデルさんみたいだから、まずは自分で着て確認しちゃえるのだ。 つくづく、スタイリストは雅兄ぃの天職だと思う。たとえ、これからある仕事が、潤くんにとっては迷惑だったとしても。
「んふふ…じゃあ、杏奈のパースも俺とのコラボレートになんのかな?ね、杏奈」
『!』
「は?パースのコラボ?」
『さ、智くん…!』
そんな時、こちらも思い出したように、智くんがなんの悪気も無く口を開く。おかげで完璧に油断していた私の心臓は、唐突すぎる一言に大きく飛び跳ねた。 もーっ!それは内緒だって、昨日ちゃんと言ったのに!!
「おい、杏奈。もしかしてそのパース、兄貴に手伝ってもらったわけ?」
『だ、だって!…っ、智くん!』
「あ…言っちゃいけなかったんだっけ、これ?」
『も〜っ!』
「もー!じゃないだろって、杏奈!智くんも、簡単に手ぇ出しちゃダメだって言ってんじゃん、いつも〜」
潤くんと翔ちゃんが口々にうるさいことを言うので、智くんと2人で(巻き込んでごめんね)、ちょっとばかり黙って拗ねてみる。 ソファの方では雅兄ぃが心配そうに見守り、和兄ぃは声に出さずに“バーカ”と言ったのが分かった。
『細かい部分、ちょっと手伝ってもらっただけだもん!智くん色塗るの上手だし、提出日も迫ってたから、手伝おうか?って智くんから言ってくれたんだもん!』
「うん。俺から言ったんだよ。いつも色塗り見てて、楽しそうだなって思ってたから」
『ほら!』
「ほら!」
我ながら子供みたいな言い訳だけど、怒られっぱなしは悔しいので、一応反撃してみる。 するとそれを聴いた和兄ぃが、今度は声に出して、ほら!じゃないでしょーが!とツッコミを入れた。
「うわ、2人して開き直りやがった…」
「てか、なんで智くんまで逆ギレしてんの!?そもそも、課題は人の力借りてやるもんじゃないだろって言ってんのに、」
『はいはい!分かりましたー!もう終わり!コーヒー出来ましたよー!』
「っ…、いっつもこうやって誤魔化すんだもんなぁ〜、杏奈は…。ったく」
翔ちゃんの呆れたような言葉に聴こえないフリをして、6つ分のコーヒーをテーブルに運ぶ。同様に智くんも、さっさとポトフとサラダを運ぶのを手伝う。 何だかんだ言って、最後には無茶苦茶な言い訳と取り繕いが通用してしまうのが、長男と、唯一の妹の成せる技なのだ。
「あれー?杏奈、翔ちゃんの分も淹れてあげたんだ。大丈夫?冷めちゃわない?」
『あ…。だって、翔ちゃんのカップだけ仲間外れにしてるみたいだったから…』
テーブルに集まってきた雅兄ぃが、並んだカップを見て言う。確かに約15分前まで、翔ちゃん専用である赤いカップは、食器棚で取り残されていた。 仕事で遅くなったとはいえ、せっかくのコーヒーブレイクに全員が揃わないのは、なんだか寂しい。
「はは、仲間外れって」
『飲まない?翔ちゃん』
「や、大丈夫。ちゃんと飲むから、置いといていいよ。ありがと、杏奈」
「ひゃひゃ。杏奈は優しいな〜、もう!」
「優しいのはいいけど、ポトフとサラダとコーヒーって、食べ合わせ悪過ぎやしません?んふふふ」
和兄ぃもカップを手に、立ったままコーヒーをすする。口元は笑っていて、ずっとプレイしていたゲームも、ようやく休憩に入ったようだった。 そして、良い香りを放つコーヒーを前に、私が砂糖を入れるか迷っていると、智くんが糖分は必要だよ、とニッコリ笑う。
「そーいえば、杏奈。明日も学校?帰りは何時になんの?」
角砂糖がスプーンの上でコーヒーに溶けていくのを観察していると、キッチンカウンターから潤くんが話しかける。こちらは、片付け作業をしながらの休憩タイムだ。
『えーっと…。いつも通りだと思うよ?遅くなっても7時ぐらい』
「7時…7時か〜……。真っ暗だね、外は…」
何てことない、当たり前すぎる智くんの発言は、全員に何かを考えさせる十分な時間を与えていたことに、当の私は気付いていなかった。 なぜなら、角砂糖が全部溶けたのを確認した後、今度はミルクを入れて、コーヒーの色が変わっていくのを楽しんでいたから。みんなの視線が一瞬交差していたことなんて、気付くわけがない。
『? 、うん?』
一卵性の双子は特別な勘が働くとよく言うけれど、それは血が半分ずつしか繋がっていない兄妹同士にも起き得ることなんだろうか?しかも、6人という大人数の兄妹で。 もしそれが事実なら、私は日々、奇跡を体験していることになる。だって、こんな風に全員が想いを合わせているのは、見慣れた景色だから。
――― そういう意味で言えば、私たちはどんな兄妹よりも完璧な兄妹だ。きっと。
「「「気を付けて帰ってこいよ?」」」
『! 、ふふっ。うん』
「防犯ブザー、忘れないでね?!」
翔ちゃんと和兄ぃ、潤くんが完璧なタイミングで声を揃え、雅兄ぃは隣で、顔を覗きこむようにして確認をする。
ほんの数分前まで、課題の取り組み方について注意されたり、互いにからかって文句を言ったり、夜遅くにも関わらず騒いでいたりしたはずなのに、ほんの少しのきっかけで空気が変わる。 そのきっかけが自分であることに不思議な幸せを感じてしまうのは、もしかしたらちょっとブラコンすぎるかも知れないけど……、
「杏奈、学校が終わって帰る前には、ちゃんとみんなにメールするんだよ?」
『もう、分かったってばー!毎日同じこと言わなくてもいいのに!』
「はは。智くんだって、心配してるからこそだろ?素直に聴いとけって」
でも、そんなのお互い様でしょ? この幸せを感じているのは、自分だけじゃないってこと。
それだけは、私だってちゃんと気付いてるんだからね!
End.
→ あとがき
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