Dear, Diary [Chap.1] -8/9


side. S



宛がわれた講義ルームがある旧校舎は、設備の整った新校舎とは違い、色々と不便な部分が多い。
迷路のように複雑な造りと、急で無駄に沢山ある階段が、他の先生達をこの校舎から遠ざけさせている原因だ。
でも、俺はこの校舎の持つ外国の大学のような雰囲気が好きだったし、何も文句は無い。
それどころか、この季節は中庭のイチョウの木が綺麗に紅葉していくのを一望することが出来て、贅沢な気分にされることの方が多かった。


特に、下校時間となった今のような夕方には、全ての色が綺麗に輝きだす。



「やっぱ、同じ3階でも自分とこの講義ルームから見える景色とは、またちょっと違うね。ここからの中庭も、ちょー綺麗」

「うん、俺も翔くんとこから中庭見た時、同じこと思った。でも、こんなに綺麗な景色独り占め出来るってのに、他の先生達は全然使いたがらないよね。勿体ねぇなぁ〜」



隣を横目で確認すると、俺が差し入れたコーヒーを飲みつつ、同じようにこの魅力に吸い込まれている姿。
毎日、少しずつ変化していく葉の色を目に焼き付けているようで、瞳は楽しそうだけど真剣だ。
きっと、それは後にアートというものに還元されていくのだろう、と思う。
でも、その人の座っている机の前には先日行ったというミニテストの答案が散乱しており、なのに本人は素知らぬ顔で窓の外の景色に見入っているのだから、俺はそれが気になってしょうがなかった。



「つーか、智くん。そのテスト、ずっとそのまんま放置してるけど、採点しないの?全然進んでないじゃん」

「…じゃあ、翔くんが代わりにやる?やってもいいよ。採点すんの好きだべ?」

「いやいやいやいや!意味分かんないんだけど、その流れ!好きだなんて、今まで一言も言った覚えないし!そもそも、俺と智くんじゃ字が違うじゃん!さすがに生徒だって気付くでしょ?それ!」

「…っんだよ。やってくれると思ったのに…」

「ちょっ…、ははは!もしかして舌打ちした?!今!常識で考えて、大野さん!俺は英語で、智くんは現国。もともと採点なんて、出来るわけありませんから!」



大学の先輩であり、今はこの学校に勤める先輩である智くんは、教師だけど教師らしくない。
生徒の指導について、特別に譲れない信念や拘りがあるわけでもなく、常にこんな感じだ。
あるのは自分が興味のあること、その一点だけで、主な対象は釣りやアート。
自分の好きなことには全力だけど、それ以外はほとんどスイッチをオフにしているような、そんな教師。

でもそのせいか、智くんのやり方は良い意味で明確だった。


教科書通りに進む、予定調和が約束された授業内容。
何かを教えているというよりは、どこか大学の講義のようで、全てが智くんのペースで進められていくから余計な時間を必要としない。
宿題はとにかく問題集やプリントの繰り返し。時間が余れば、ただひたすらに本を読ませる。
生徒からの質問にも、人それぞれ感じ方は違うから、と一蹴するような返答だ。



「かったりぃなぁ…」

「ははは!自分が面倒だからって理由で時間潰しにテキトーにテストやらせておいて、そりゃあ無いでしょう!」



こんな指導をしていて保護者からクレームは来ないのか、と思うかもしれない。
でも、繰り返し問題をやらせることも、本を読ませることも、何も間違ったことはしていないのだ。自分で何かを考えさせることも、生徒の確かな力になる。
だから、クレームは来るどころか、保護者も信頼してこの人に子供を預けているようだった。
何より、生徒達が楽しんで授業を受けているんだから、文句なんてあるはずがない。



最初は持ち前の才能を活かして美術の先生になった方が、と思ったこともあったけど、決して答えが一つではないという現国は、智くんにぴったりなんだと今なら分かる。
それによく考えたら、趣味を仕事にしてしまうのはこの人の場合、余り良いことじゃない。きっと。



「翔くんは?終わったの?仕事」

「うん。一応、今日までにやっておかなきゃいけないことは全部終わってる」

「そっかぁ。…あ、この子、また漢字間違ってる。もう何度も言ってんのに…」

「誰?…あ〜。…英語でもスペリングとかのケアレスミス多いよ、その子。頭は良いんだろうけど、基本を理解してないことが多いんだよね。なんか惜しい、っつーか」

「…そういう子が一番面倒!」

「っ、はははは!それ、絶対に生徒の前で言わないで!」



教師同士の会話は情報に溢れている。しかも、大半は生徒のことだ。だからこそ学校の外、公の場では話題を避けるのが暗黙の了解。
でも、今はほとんど人がいない下校時間で、しかも旧校舎だ。話す相手も信頼出来る。
こういう時間は赴任してきてから徐々に増えていったもので、俺にとっても良い休息だった。
それに、いつも不思議に思うことだけど、智くんと一緒にいると時間がゆっくり過ぎていく。



「…ん?これ、相葉の?」



ぶつぶつ言いながら採点しているのを笑っていると、その何枚かの中に見慣れた字が目に入った。
アンバランスな字の書き方は、確かサッカー部の入部届けや、もちろん英語のテストでも見たことがある。



「はははは…!やっぱ、なんかよく分かんないけど、相葉って凄いね?この捉え方!ある意味、天才だわ。英語の時と全く一緒!」

「視点がね。ちょっと違うんだよね、他の人と。まあ、文章はめちゃくちゃだけど、言いたいことは分かるからマルにしてる。俺も読んでて楽しいし」



サッカー部の部員でもあり、俺が英語を担当しているクラスの中の1人である相葉雅紀はムードメーカーで、とにかく明るい。
時々、進学校であるこの学校に良く入学出来たな、と思うこともあるけど、授業では分からなくなったら率先して手を挙げて質問をするし、常に一生懸命だ。
加えて、誰とでも分け隔てなく接するから、クラスも学年も超えて人気が高い。
本人は何も考えずに行動しているのだろうけど、ああいうヤツが学校の中心になることも、他の生徒に与える影響も、絶対に悪くないと俺は信じている。



「あ…。視点が違うと言えば、もう1人。んふふふ…。時々、翔くんの所に来てるよね?」

「え?あ、夕城のこと?」

「うん。相葉ちゃんとは違う意味で、回答とか読んでて楽しいんだよね。夕城さんって」



頷き返しながら相葉の答案用紙を戻すと、その手には俺が持っているものとは違う、丁寧に綴られた、もう1人の見慣れた字の答案用紙。
一口飲んだコーヒーの苦みと香りに、その字がより鮮明に、より濃くなっていくような気がした。
紛れもなく、お昼になる度に飲んでいるコーヒーと、夏休みに店で飲んだコーヒーのせいだろう。
窓の外を覗けば、新校舎の屋上と貯水槽も夕焼けに照らされて赤くなっている。



夕城杏奈は、俺が受け持っている生徒の中で一番と言ってもいいぐらい英語が出来て、しっかりした生徒だ。


まともに会話をしたのは、今も視界に入る貯水槽の上で、確か6月になったばかりの時のこと。
次の授業に備えて講義ルームで準備をしていたら、貯水槽のはしごを制服のまま登っていく姿が見えたのだ。
授業を通して話をしたことはあったけど、そんな目立つようなことをしでかす生徒だという印象は無かったので、驚いたのを覚えている。
自慢じゃないけど、生徒の顔と名前を覚えるのも得意だし、視力も半端なく良いので、すぐに夕城だと分かった。



「それは、英語でもそうかも。英訳も和訳も表現が独特で、且つ分かりやすく文章を作れてるし。原文に書いてあることをきちんと理解して、解釈出来てるね、夕城は」

「やっぱり?現国でも、そんな感じでさ。んふふふ。…この前なんて、俺がなんとなく紹介した本を読みたいって言うから、ついあげちゃった。しかもそれを3日で読んできて、感想までくれたの、俺に」

「へー」

「んふ。他の生徒は1年後の大学受験で頭がいっぱいなのに、夕城さんは本を読んで感想を言う余裕があるんだよね。だから好き。俺のお気に入りの生徒の1人。あと、相葉ちゃんも」

「はははは!それも絶対に他の生徒の前で言わないで!問題になること間違いなしだから!」



マイペースな発言を笑いながら注意をする。でも、その気持ちも分からなくは無い。
なぜなら教師にとって良い生徒というのは、自分の授業を真面目に受けてくれることはもちろん、こちら側の意図をしっかりと理解してくれる生徒のことだからだ。
そういう意味で言えば、相葉と夕城は正反対だけど、教師に好かれるタイプの生徒だった。


発想が自由で、予想以上のものを出してくる。
自分の仕事の成果や信念を教え子が体現してくれることほど、教師にとって嬉しいことはない。
でも、俺の注意の仕方が気になったのか、眺めていた答案用紙から顔を上げて智くんが言う。



「…俺にそんなこと言うけど、翔くんだって人のこと言えねーべ?」

「え?」

「夕城さんだけ講義ルームに呼んで弁当食わせたり、勉強教えたり」

「ああ…」

「しかも、コーヒーまで出してんじゃん。夏休みも勉強教えてたみたいだし…。俺ならともかく、翔くんがやると、バレたら他の女子生徒や先生達がうるせーぞ?」

「それは分かってるけどさー…。でも、あっんな高い所で1人で弁当食べてて、何かあったらそれこそマズイでしょ?!つーか、智くんが最初に発見した時に、きちんと注意してくれてればそれで済んだのに!」



赤く染まった貯水槽を指差して言う。
夕城は平気だったようだけど、俺は今でもはっきり思い出せるぐらい、あそこからの尋常じゃない高さを覚えていた。
命の危険を感じるというのは、ああいうことだ。
俺がそう訴えると、“ああ、確かにね”と笑う様子を見る限り、きっと智くんも高い所は平気なのだろう。少なくとも、俺よりは。



「はぁ…。なんつーか、講義ルームにでも誘わないと大人しく止めてくれそうになかったからさ、あの場合。だって、智くんに見付かってんのに、懲りずに登ってるワケだし」

「まあ、俺も“何やってんの?”って訊いただけだしね。注意はしてない」

「はは、やっぱり。でも、そうでしょ?頭ごなしに叱るよりも、少しずつ歩み寄って軌道修正していった方がいいかな、と思ったの。夕城の場合。…だから、たぶん大丈夫だよ。夕城はそういうことを他のヤツに自慢するようなタイプじゃないし。それに、智くんや相葉だって時々一緒に食ってんじゃん」



わざと智くんと相葉の名前を出して、心配ないということをアピールする。
実際に軌道修正出来てるかはともかく、夕城杏奈という生徒が、そんな下らないことをするようなヤツじゃないということは確かだった。
そのことは、お気に入りの生徒の1人に挙げるくらいだから、智くんだって良く分かっているだろう。



「勉強だって、弁当食べた後におまけ程度に教えたり、なんとなく授業で話せなかったこと言ってるだけだよ。あとは雑談してるだけだし…。それを贔屓だって言われたら、教師としてなんも出来ないじゃん。でしょ?」



相変わらず答案用紙を弄んだままの智くんに向かって、少し強めに言う。
今すぐ“教師とはどうあるべきか”なんていうテーマで討論出来そうな流れなのに、そうならないのは相手にしているのがこの人だからだ。
答えを求めるように繋げた会話を、当たり前のように無視してクスクス笑い出す。


でも、繋がらなかった会話に一番ほっとしているのは、何を隠そう俺だということを智くんは知らない。



「んふふふ…。やっぱり、翔くんって真面目だよね。翔くんから今みたいな言葉聞く度に、教師に向いてるなぁ、って思うの、俺」

「っ、何それ?どういう意味?」

「んふふ。誉めてんだよ」



真意は図りかねるけど、その笑い方を見て悪いことを言われているワケではないのだろう、と自分を納得させる。
どっちにしろ、どんな理屈を並べても相手が智くんじゃ意味は成さない。生徒のことを色々言うけど、この人も十分、“視点が違う人”だからだ。
それでも発する言葉は確実に何かを残していくので、俺は言われたことを考えざるを得ない。



――― もしもこの会話がきちんと繋がっていたら、俺は今考えていることをきちんと説明出来るのだろうか?



正直、ちょっと自信無い。




To be continued.


→ あとがき





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