再会 - 7/12


そこに足を踏み入れる前に、もう一度、念入りに服を確認する。



『ちゃんと落ちたかな…』



20分前にあった幸運な出会いと、シャネルの服に付いてしまった可愛い子犬の毛。自分なりに落としてきたつもりだけど、ほんの少し不安になる。
なぜなら、今から入ろうとしているラウンジは、立ち入り制限がされている施設の一つだ。
ラウンジ自体は船内の至る所にあるけれど、ここはセミスイート以上の部屋に宿泊しているゲストしか入ることは出来ない。改めて、潤に感謝をする瞬間だ。



『わぁ…!』



重厚感のある扉を開けてすぐに目に飛び込んできたのは、真っ青な海だった。南側の壁が一面ガラス張りになっていて、当たり前の海の景色も、特別なものに見えた。
シックで落ち着いたモダンなインテリアは、正に制限ありの施設そのもので、思わずうっとりと見入ってしまう。
そんな景色と雰囲気に見惚れていると、当たり前のように女性スタッフがシャンパンのグラスを渡してくるのも、ここならではだ。



『アヴァルテのカルセリチェア…!死ぬほど持って帰りたい…!』



揃えられている全てのものも、もちろん一流品。ソファのように座り心地が良く、ロッキングも出来る、一脚75万は下らないデザイナーズチェアに、ついつい感嘆の声を上げてしまう。
平日の昼間に、憧れの贅沢な椅子に座ってシャンパンを飲むなんて、普段だったら絶対に考えられない。幸せすぎて身悶えしそうだった。


でも、仕事を完璧に忘れられないのも、私の事実。
周りの他のゲストを観察してみると、同じようにシャンパンを飲みなら談笑していたり、ノートパソコンを広げて仕事をしていたりするゲストも多かった。
さっきまでいた5デッキの賑やかさも捨てがたいけど、全く違う、大人なムードが漂うこのラウンジも素敵だ。別な意味で、ワクワクしてくる。



『ん…?』



特別なラウンジの雰囲気に、軽い口当たりだけど美味しいシャンパン。脳内のパソコンで、記事を一つ書き上げていく。
でも、その記事の最終チェックをしている途中で邪魔が入ったことにより、作業は中断した。
足元を見ると、1枚の紙がふわりと絨毯の上を舞って落ちてくる。…ううん、紙と言うより、それは書類だった。しかも、全文英語の。
辺りを見回すと、ガラス張りの壁に寄りかかり、すぐ近くで電話をしている男性を1人発見する。その手には、何枚かの書類があった。



「!…、あっ…」



他には書類を出しているゲストがいなかったこと。それに、英語で話をしている人が周りに少なかったこと。
落ちてきた書類の持ち主はこの彼だろうと判断し、電話の邪魔をしないように、そっと肩だけ叩いて書類を差し出した。すると、その書類が自分の物だと気付くと、彼の方も声には出さずに、すみませんと軽く頭を下げる。
さっきから耳に入る彼の言葉は全て英語で、ネイティヴとも思えるぐらいの流暢なもの。だから、その声を辿った時に彼が日本人だと知ってびっくりした。
やっぱり、こういう旅に参加する人は仕事も能力値も、普通じゃないってことなんだろうか。



「あの…」

『!』

「さっきはすみません。ありがとうございました」

『っ、…!…いえ、お気になさらないで下さい』



すると、その約10分後。私が元の席に戻り2杯目のシャンパンを楽しんでいると、電話を終えた彼がわざわざお礼を言いに来る。
でも私は、予想もしていなかった彼の律儀な対応に、思わず軽くむせてしまった。
なんてったって、今や私はラウンジの雰囲気や景色よりも、シャンパンに酔いしれている。なのに、そんな風に爽やかな笑顔を振りまかれてしまうと、酔いも醒める勢いだ。



「ははっ…。すみません、驚かせてしまったみたいで」

『そんなこと…』



グッチのスーツに、このラウンジを利用していることからも、彼がかなりのお金持ちであることは確か。でも、潤とはまるで違う雰囲気が新鮮だった。
潤が生まれならにセレブだったとしたら、きっとこの人は、自ら財を成したタイプだ。勝手なプロファイリングだけど、どちらかと言えば自分に近い人だと思う。
品の良さや、相手を気遣うようなソフトな話し方は、多くの人を相手に仕事をしていないと身に付かないものだから。



「…このクルーズにはお1人で参加しているんですか?」

『いいえ、友人と一緒に』

「そうですか。いくら船旅で他者との関わりが醍醐味だとしても、気心が知れた相手が1人はいた方が楽しいですからね。それは良かっ、…!、…はぁ」

『…!』



今回のクルーズについて参加の経緯を話していると、胸ポケットに入れていたケータイが震えたのか、彼がため息を吐いた。億劫そうな表情が意味する電話には、私も仕事上、身に覚えがある。
でも、やっぱりこの人は、仕事が出来る、紳士な人だ。
電話に出る前には会話を中断させてしまうことを謝罪し、丁寧に自分の名刺を私に差し出した。そこには、英語と日本語の両方で、聴き慣れない仕事の名前が書いてあった。



「…櫻井と申します。もし、また見かけたら是非声を掛けて下さい。…簡単ですけど、今はこれですみません」



でも、その疑問を彼にぶつけるには、彼の残り時間は十分ではなかった。そう言うと、慌ててケータイを開きながらラウンジを出ていく。
扉が完全に閉まるまでには、またあの流暢な英語で会話をする彼の低い声が、私の耳まで届いていた。それを合図に、私も自分のケータイで時間を確認する。


時計を見ると、午後6時15分。



『あっ?!キャビンに戻らなくちゃ!』



――― でも、シャンパンは最後の一滴まで、きちんと飲み干した。






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