彼が彼女の好きなところ - 5/9
「先生!?」
5デッキから6デッキにあるカフェ【Paint by Numbers】へと移動している時から、もしかしたら…とは思っていた。 私には潤が、二宮くんには雅紀くんがいる。会うべき人がそこにいる。じゃあ、櫻井さんがここまで足を運ぶ理由は? 待ち合わせをしていなければカフェでコーヒーを飲んじゃいけないなんていう決まりは無いけど、そもそも櫻井さんがこの船に乗っている理由自体が、そういうことなのだ。
未だにピンと来ないその呼び名は、私だけじゃなく、本人も同様らしいけど。
「翔くん…、!…杏奈…?」
櫻井さんの声に肩越しに振り返っただけのはずが、私も一緒に居ることに気付き、智の座る椅子はいつの間にか綺麗に半回転していた。 予測していた通りの展開にも関わらず、柄にも無く戸惑うのは、私を見つめる智の瞳が相変わらず真っ直ぐだから。 客観視するまでもなく、まだ完璧に立ち直ったとは言い難い自分。 逃げ出したくて仕方ないのに、事も有ろうか、私の親友は“なぜか”私の元彼と肩を並べてコーヒーを飲んでいる。これじゃあ、この場を離れる言い訳は作れそうもない。
「! 、…やっと起きた。おはよ、杏奈。櫻井さんも。それに…ニノ、…二宮さんだっけ?一緒だったんだ?」
「ちょーど、5デッキでお会いしたんで。んふふふ…、名前覚えて頂けてたなんて光栄だな」
2人がそんな会話を繰り広げる中、一緒に来た櫻井さんは軽く潤に会釈をした後、その隣に座る智の側へ立つ。 そして私はと言うと、潤に遅れたことを謝罪しながらも、意識は智だけを捉えているようだった。 せっかく潤が服を褒めてくれているのに、曖昧な返事しか出来ない私は、本当に、なんて酷い親友なんだろう。
「先生ぇ〜…!もしかしたら、と思ったけど…ここに居たんですか。キャビンにも居ないし、5デッキにも居なかったから探しましたよ〜。せめて、ケータイ持って動いてくれないと!」
「ああ…。ごめん、翔くん。…なんか用でもあったの、俺に?」
そう訊かれ、櫻井さんはNYでのパーティで得た作品の評価と収入、そして新たな契約について話したいことがある、と律儀に説明をする。 なのに訊いた当の本人は、冷めきったコーヒーを啜りながら、適当な返事ばかりするのだから大変だ。 そして私は、智のそんな様子が懐かしくもあり、それが過去となっている現実に、またも押し潰されそうだった。
“智くんも、そんな感じだったな”
私と違っていつも通りの空気を保つ智に、その片鱗を見出だすことは出来ない。 でももし、櫻井さんの見解が真実だとするならば、そこにある意味は?もたらす意味は、何なんだろう。 ゴールなんて無い、考えても仕方の無いことなのに、さっきから、どうしても頭から離れてくれないのだ。
「相葉さーん!?」
『…!!』
「あなた、それ以上豆挽いてどうするつもりよ。そんなのいいから、こっちに来てお客様の相手した方がいーんじゃないの?どーせ、大した技術は持ってないんだからさ」
でも、そんな私を引き戻すように、潤の隣を1席分空けて座った二宮くんが、大きく声を上げた。 すると、別の仕事をしていたのか、雅紀くんが奥の厨房からカウンターの中へ、ドタバタと音を立てて戻ってくる。
「ちょ…っ!そんな言い方ねーだろって!俺だって、これでもバリスタの資格ちゃんと持ってるんだからね、……って!杏奈さん!ひゃひゃ!おはよーございます!今日も良い天気ですね!」
真っ白なシャツと、背の高さを際立てるタブリエエプロン。でも、それ以上に眩しいのは、太陽みたいに弾けた笑顔。 まるで起伏なんて無いそれは、無料のコーヒーなんかよりも価値がある。 そういう意味で言うと、お客様の相手をしていた方が…という二宮くんの意見はもっともな気がした。本人には、悪いけど。
『ふふ…。おはよう、雅紀くん。ほんと良い天気ね』
「ひゃひゃ。朝仕事に入ってる間に来てくれるかなーって思ってたんですけど、ちゃんと会えて良かった〜!コーヒー飲みます?朝食もまだなら、一緒にスコーンのセットでも出しますよ、俺!それに…えっと、松下さんでしたっけ?松下さんもいかがです?」
「っ、…いや、だから…松本です。さっきから間違え過ぎだし」
「へえっ?」
『ふふっ…!雅紀くん、私と“松本さん”の2人分、お願いね?』
「相葉さん、俺もコーヒー。ブラックでー」
「あれっ?ニノ、来てたの?」
「っ、お前、誰に呼ばれてここに出て来たんだよ!頭の電源、しっかりオンにしとけよな!」
『ふふふ!』
出会った当初から変わらない2人の掛け合いに、自然と声を出して笑う。 潤はもちろん、どれだけ心が不安定であっても、こうやって自分を笑顔にしてくれる誰かがいる事実。過去を思い出しては泣くまいと必死になるけど、私はやっぱり恵まれているんだと確信する。 今の自分にとって、それがどれだけの励みになっているか、いつかきちんと伝えないと。
「お兄さんはどーします?今来た…えっと、しょーちゃん?」
「えっ?」
『…!…』
「? 、食べるんだったら、しょーちゃんの分も一緒に用意しますよ、俺。ふふふふ」
なんの段階もなく雅紀くんに愛称で突然呼ばれ、櫻井さんは驚きを隠せない。 一度、この場所で智を交えて会話をしているのは、旅が始まってすぐに目にしたことがある。 でも、見るからにエリートビジネスマンの櫻井さんを、そんな風に可愛らしく呼ぶ雅紀くんは、どういう感性で人を見ているんだろう。 その感性を自分も手に入れたい、と思った瞬間、仕事をする時の感覚にスイッチが入ったような気がして、嬉しくなった。
「えっと…。どーします、先生?」
雅紀くんの“しょーちゃん”呼びに、ほんの少し戸惑いながらも、櫻井さんがそう訊く。 視界には入るけど、きちんと目を合わせることも出来ない私は、ただじっと成り行きを見守るだけ。 今の私に、“一緒に食べましょう”と誘えるような心の余裕があるわけない。
「…いや。…食べるのはいいけど、書類とか、また広げてサインしたりしなくちゃいけないんでしょ?だったら、あっちの広いテーブルに移ろう、翔くん。…相葉ちゃん、そっちに運んでもらってもいい?」
「はい、もちろん!」
『……』
櫻井さんと雅紀くん。彼ら2人に向けて言ったはずのその言葉が、なぜか自分にも向けられている気がした。
智は、船が動き出しても尚悩む私に気を遣っている。そして、その原因が自分達のことだと、漠然とだけど、きっと気付いている。 今はどう頑張っても距離を縮めることは出来ないんだと、お互いが悟っているような気がして、我ながらなんて切ないんだろう、と悲しくなった。 櫻井さんと一緒にこの場から離れようとしている智に、一言も声もかけられないなんて、こんな未来を望んでいたわけじゃないのに。
「…大野さん?」
『…!』
そんな時、潤が智に向かって声をかける。 ほんの少し遠くなった場所で、不思議そうに振り返る智と、一瞬だけど目が合ったような気がした。
「さっき訊いたこと。…ちゃんと考えておいてね?自分の為にも…」
2人が何を話していたかは分からない。それに、意味も理由も分からない。 ただ、よく通る潤の声は賑やかな店内でも良く聴こえ、最後の言葉は智にとって、大きく響くものだったんだと思う。 隣に立つ櫻井さんはそんな智の様子に気付き、“言ったとおりでしょ?”とばかりに、私に笑って見せた。
「…うん。そうだね…」
――― つられるように覗いた智の瞳は、確かに私と同じ色だ。
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