彼が彼女の好きなところ - 4/9
side. N
約3日間に渡るNYでの停泊を終えた後、船は再び動き出し、クルーズスタッフの忙しい日々は始まる。
この仕事で生活しているぐらいだ。経験は十分あるつもりだし、こんな生活にも慣れている。 けど、今回のミステリークルーズなる旅は客がセレブリティしかいないせいか、寄港地に着けば船に残る人間の方が少ない。 おかげで、俺も相葉さんも、スタッフは大いに暇を持て余すことになった。 どこぞの誰がこんなクルーズを企画したのか知らないけど、ここまで無意味に豪華な旅は初めてだ。
『二宮くん?』
「! 、…杏奈サン…?」
改めて今回のクルーズの妙について考えていると、声をかけられる。 笑顔で歩み寄ってくるその姿を見て、なんで夜勤明けでもないのに、自分がここ5デッキでコーヒーを飲んでいるのか、ようやく分かったような気がした。 普段なら大歓迎のNYでの休息も、ほんの少し物足りなさを感じたのは、きっとこの人のせいだ。
「んふふふ、お久しぶりです。と言っても、2日ぐらいですけど」
ヒッコリーのシンプルなデザインのワンピースに、Tストラップの黒のフラットシューズ。 カジュアルだけど上品な彼女の装いに、他のセレブ乗客のような、ギラギラしたはしゃいでる感は無い。 でも、仕事への情熱や、時折見せる子供のような表情は自分には無いだけに、見ていて新鮮だ。少し、相葉さんと接する感じと似ているかも知れない。
『ふふ…。ここに居るってことは、また夜勤明け?眠そうな顔してる』
「いや?今日は午後から仕事で、ここには用は無かったんですけど。…杏奈サンこそどうしたんです。体力維持の為のジョギングは、もうやめちゃったんだ?」
俺がからかうように訊くと、そういえば…と、舌打ちをして顔をしかめる。 NYに停泊していた時でさえ続けていた日課を、ここにきて忘れるなんて、杏奈サンらしくない。
「? 、なんかあったんですか?うっかり寝過ごして忘れちゃったみたいだけど」
『! 、ふふ…そうね。起きてはいたんだけど、忘れてた。なんていうか、考えることが多すぎたっていうか……、!…櫻井さん?』
雑誌のエディターという職業柄か、きちんと的確な言葉で説明しようと、杏奈サンが思考を巡らせる。 でも、少し遠い場所で止めた視線と、初めて耳にする誰かの名前に、その会話は中断することになった。 視線の先には、いかにも仕事が出来そうな、スーツ姿の爽やかイケメンがデッキに入ってきたところで、それを見て、緩めていたネクタイをこっそり直す。
そして、その時やっと。盗み見した杏奈サンの瞳が、少し赤くなっていることに気付いた。
「夕城さん…!パーティではどうもありがとうございまし…って、すみません。…お話中でしたか?」
『あっ…。こちらは…、』
「んふふふ。お気になさらずに。ただのクルーズスタッフですから。なんだったら、席外しましょーか」
冗談ではなく、豪華客船のスタッフらしく、本気で申し出たつもりだった。 けど、それが当然であるかのように、何の躊躇いもなく杏奈サンは俺を紹介し、相手も笑って応えるんだから、不思議な気分になる。 交換した名刺によると、爽やかイケメンの名前は櫻井翔とのことだった。
本当に、今回のクルーズは企画も元より、乗客も変なヤツばっかりだ。
『…NYでは、櫻井さんの勤めるギャラリーのパーティにお邪魔してたの。ちょうど、二宮くんたちとセントラルパークで会った日だったかな』
「へー。取材も兼ねて?」
『っ、ふふ!まあ、それもあるけど』
「はははは!…無理にお誘いしちゃいましたけど、少しでも夕城さんの仕事のお役に立ててたなら良かった。記事にする時は、是非ご連絡して頂ければ」
そう言って、杏奈サンと櫻井さんはNYであったことを楽しそうに話してくれるけど、どうにも上手く、俺の持っている情報とは合致してくれない。 2人がどこでどう知り合ったかは分からない。でも、急遽NYでのパーティに招待するには、少し関係が薄すぎる気がした。 杏奈サンの親友である御曹司がパイプになっている可能性はあるけど、それにしても互いの接し方は他人行儀だ。
笑っていても、相手の出方を頭のどこかで伺っていて、友達や知り合いというよりは、仕事場でのライバルであり同志という感じ。しかも、杏奈サンの方が身構えている。 もし俺の見解が合っているなら、彼女の目が赤くなっている理由は、そこにあったりするんだろうか。
『記事にするかは、日本に戻ってからじゃないと分からないけど…。でも、凄く良い時間を過ごせたし、櫻井さんには招待して下さって感謝してるんですよ?…おかげさまで、思いっきり打ちのめされた気分にもなりましたけど』
「…!…」
「夕城さん…」
笑ってはいるけど、その言葉通り、負けを認めるような杏奈サンの表情に、詳しい事情は分からなくても何かを察知する。 そして、その言葉を受けて返した櫻井さんの言葉と杏奈サンの反応で、ほんの少しだけど、俺は理解出来たような気がした。
「はは…!…智くんもそんな感じだったな、ずっと…」
『…!…』
――― たぶん、彼女の瞳が赤くなった原因は、その新たに出てきた名前の持ち主にあるんだろう。
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