幸せの正面衝突 - 1/2
“お前を幸せにするためなら、俺は何だってするよ”
結婚する時、彼が私にそう言ったのを、はっきりと覚えている。 この言葉を聴いて、私は彼が本当に優しく誠実で、自分のことを愛してくれているのだと実感した。 だから、私も彼を幸せにしたい。彼が喜ぶこと、望んでいることを、自分が叶えてあげられたら…と、ずっと思ってきた。 でも、いざ、もしかしたらその時が来たのではないかと思うと、不安になる。
このタイミングであることを、潤くんは心から喜んでくれるだろうか。
『陽性……』
仕事場である事務所のバスルームで、妊娠検査薬を持って呟いた。 古くも美しい外観を持つこのアパートは、かつて住んでいた部屋。結婚を機に、フリーのインテリアコーディネーターとなった時、事務所と名前を変えた場所だ。 2部屋分の広いスペースは、住むことが決まった当初にリノベーションをした為、何もかもが自分仕様になっている。 土地の所有者でありアパートの管理人である老夫婦が、私を娘のように可愛がってくれたからこその無茶。ここを事務所として続けて借りられるのは、とても嬉しいことだった。
『妊、娠…してるの…?』
だからこそ、普段はここへ来て仕事をしている。 生理が遅れていること、最近妙に熱っぽいこと、気分が悪くなって吐いてしまったこと。 もしかしたら…と思い、恐る恐る仕事場で検査薬を使ってみたのは、他に社員やアシスタントを雇っていない私にとって、ここは秘密を持つにはぴったりの場所だったからだ。
でも、まさか本当に妊娠しているなんて!早く、今すぐ、知らせなくちゃ!
『…っ、…』
バスルームを出て、大急ぎで自分のケータイを手に取るけど、出し慣れた電話番号に動きが止まる。 電話の相手は私の旦那さんであり、嵐の松本潤。歌って踊れる国民的アイドルの、“あの”嵐の松本潤。何度でも言うけど、嵐の松本潤だ。 歌だけじゃなく、何本ものレギュラー番組を持ち、ドラマ、CM、雑誌と、姿を見ない日は無いぐらいに忙しい人。 そして今は、舞台の為に必死に稽古中でありながら、更に忙しい日々を送っていることを、妻である私は知っていた。
――― もうすぐ、新しいアルバムが出る。コンサートツアーが、始まる。
もちろん、潤くんは子供を以前から望んでいたし、実際こうやって私が妊娠しているのは、彼が愛してくれた結果だ。 私が今まで見てきた彼は、子供が出来たと言えば、絶対に喜んでくれる人だと疑わない。 でも、結婚して僅か1年で妊娠したのは驚きであり、予想外であることには違いないと思った。加えて今は、寝る間も惜しむほど忙しい状況なのだから。
「っし…。杏奈、オリーブオイル取ってもらっていい?」
『あ…、はい』
そういうわけで、妊娠したことを伝えることは出来ず、ただ留守電に、“帰ったら話したいことがあります”とだけ残して、電話を切った。 忙しいことで繋がらなかった電話に、ある意味感謝をしつつも、数時間後にきちんとメールで了解の返事をくれる潤くんには、本当に彼を好きになって良かったと思う。 しかも、日々の仕事や舞台の稽古で疲れているはずなのに、今日は早く帰れたからと、得意のパスタを作ってくれる。 彼が手際良くフライパンでソースを作っている隣で、私はサラダを作る為、キッチンに並んで立っていた。
「そーいえばさ、今日雑誌の撮影の時に、リーダーが杏奈と最近会ってねぇな〜ってぼやいてた」
『大野さんが、ですか…?』
「ん。そしたら、便乗してニノたちも会ってないって騒ぎ始めて、ちょーうるせーの。だから、仕事が落ち着いたら遊びに来るかも。その時は言うから、宜しくな?」
『ふふっ…。はい、待ってます』
楽しそうにメンバーである大野さんたちのことを話す潤くんに、私もその時の彼らの様子を想像して、笑って答える。 同時に、以前、二宮さんが、夫婦のくせに私が彼に対して敬語を使っていると、テレビ番組内でからかったことを思い出した。 潤くんは、元々仕事を通じて知り合ったからだとか、自分の方が年上だからだとか、直そうとしても直らない私の敬語を説明していたけど、それだけが理由じゃない。
私は純粋に彼を尊敬していたし、感謝もしていた。 私を好きになってくれたこと。恋をすることに臆病になり、頑なになっていた私を、諦めないで待っていてくれたこと。 今、ここにある未来は、全て彼が作ってくれた未来。私が彼に敬語を使うのは、幸せであることの証なのだ。
「…で?話したいことって何?」
『え?!』
「はは、反応いいな。言ってたじゃん、話したいことあるって電話で。何?」
『あ…、い、今じゃなきゃダメですか…?』
「? 、いや、別に杏奈のタイミングでいいけど、何かなって気になったから」
そう言って、軽く私と目を合わせながら、良い色になってきたフライパンの中のニンニクに、カットしておいたトマトを合わせる。 突然振られた本題に困惑しつつも、私は頭の片隅で、今はまだ平気だけど、いずれ潤くんが作ってくれるこのパスタの香りにも、気持ち悪くなったりするのかな、と思った。 それを考えると、なんだか寂しくなってきてしまう。
「…杏奈?」
『あ、あの…なんていうか…!』
「…どうした?もしかして、何かあった?」
私の緊張する様子にただならぬ空気を感じたのか、見張っていたトマトソースの火を一旦止め、向き直る。 それもそのはずで、私は余りにも挙動不審で、手だけじゃなく、体も震えていた。 決して悪いことをしているわけじゃじゃないのに、怒られる前の子供のようになってしまうのは、やっぱり不安だから。 99パーセントの確率で、潤くんは絶対に喜んでくれるのは分かっている。でも、残り1パーセントの可能性で、一瞬でもネガティヴな気持ちが見えたら、と思うと怖い。
喜ばせたいのであって、困らせたいわけじゃないから。
「杏奈?」
でも、そんな恐怖は、彼の声と瞳だけで、あっさりと姿を消した。 私を見つめる瞳はとことん強く真っ直ぐで、それなのに優しい。名前を呼ぶ声は愛しさで溢れていて、私は彼の大切な人なのだと教えてくれる。
大丈夫。何も怖くない。
どんな時であっても、どんな私であっても、彼は私を受け入れ、幸せにしてくれる。 私も彼を幸せにしたいと思うなら、彼がもたらしてくれた未来を、大切にすることから始めなくちゃ。
『子供が…出来ました…』
「え?」
『今日、検査薬を使ってみたら、陽性の反応が出て…』
「……」
『病院で確かめてはいないけど、思い当たるふしもあるので…。きっと、間違いないと思います』
何もかもを伝え終えると、大きな瞳がより大きく開き、瞬き一つすることなく、潤くんは私を見つめていた。 2人の息遣いに、フライパンと鍋から立ち上る湯気とトマトソースの良い匂い。 永遠にも続きそうで、本当はごく僅かな沈黙の後、気付けば私は彼の腕の中にいて、きつく、きつく、抱き締められていた。
私は、いったい何を恐れていたんだろう?
「ありがとう、杏奈」
『潤くん…』
「すげー嬉しい!本当に嬉しい!杏奈、ありがとう!!」
『…っ、はい。こちらこそ…』
顔を見なくても、潤くんの頬が紅潮し熱くなっているのが、自分の耳や首筋に触れて分かる。 呼吸が出来なくなりそうな程、隙間無く抱き締められ苦しいのに、妙に安心した。彼の心臓も、私と同じスピードで音を刻んでいる。 清潔で洒落た匂いに、父親というイメージは無いけれど、こんな素敵な人が父親だなんて、私もお腹の子もなんてラッキーなのだろう。
「そうだ!」
『?』
しばらく、潤くんの温度と幸せに浸ったままでいると、突然思い出したように声を上げ、体を離す。 そして、慌ててソファに置いておいた自分のバッグからケータイを取り出し、私にこう言う。
「マネージャーに、明日のスケジュール調整出来ないか訊いてみる。明日はコンサートの打ち合わせがメインだから、少しぐらい俺がいなくても、4人がいれば場は成り立つと思うし」
『え?』
「病院、俺も付いていくから、明日行こう。杏奈も、明日は仕事休みでしょ?」
『は、はい…。でも、…大丈夫なんですか?』
コンサート隊長であり、セットリストや演出には誰よりも深く関わる彼がいないのは、たとえ他の4人がいたとしても不安が残る。 何より、自分たちの活動のメインであるコンサートは、ファンにとっても彼らにとっても、一番大切なもの。 代わりのきかない仕事だからこそ、精一杯やり、妥協はしないのが彼らであり、松本潤のモットーであるはず。 それなのに、私1人でも行ける病院の為、わざわざスケジュールを変更するなんて、私はありがたいけれど、許されるものなのだろうか。
すると、私の質問の意味を知ってか知らずか、潤くんは当たり前のように返事をした。 既にケータイは耳に当てられていて、マネージャーさんへのコール音が、私にも聴こえる。
「大丈夫、みんなきちんとやってくれるだろうし、事情も分かってくれる人たちだから。それに、今の俺にとっては杏奈の方が大事」
『…!…』
「…あっ、もしもし、俺だけど。明日のスケジュール、ちょっと調整出来ない?…うん、理由は後で話すけどさ……え?違う、そうじゃなくて…」
そんな風に言い訳に苦労しながらも、私のことを優先してくれる彼を見て、説明し難い感情が溢れてくる。 私がこうやって嬉し涙を流すことが出来るのは、潤くんの優しさはもちろん、潤くんがメンバーである4人を絶対的に信頼し、彼らも同じように理解してくれるから。私の不安を、解消してくれるからだ。 彼の妻であり、元々彼らのファンであった私にとって、その姿はとても救われる。
――― 私は、なんて幸せなんだろう。
『……でも、ほんの少し残念だったことがあります』
「? 、何?」
ベッドの上で向き合いながら、お風呂から上がったばかりの私の髪の毛を、潤くんが丁寧に乾かしていく。 妊娠している私の体を気遣い、ほんの少しの仕事もさせてくれない彼は、まるで子供みたいで可愛く、同時に出来過ぎた旦那様だ。普段の彼のイメージから考えると、ここまでしてもらうのは申し訳ない。 でも、終始、彼は楽しそうに笑っていて、これが今の私がしてあげられることなのだ、と思ったのも事実だった。
『…もうしばらく、潤くんと2人だけでいたかったな、…って』
「…!…」
だからこそ、妊娠が分かった時から抱いていた、もう一つの密かな不安と寂しさの解決方法を教えて欲しかった。 私の妊娠が、潤くんの仕事に支障を来たすことはない。じゃあ、私たち2人の関係には? 身勝手だと思われるかも知れないけど、余りにも彼が濃厚な愛で私を包んでしまったが故の不安だ。責任は、取ってくれないと。
「そうだなぁー…」
けど、私の言葉に彼は笑い、こう返すだけだった。
躊躇いのない自信に満ちた回答は、正にイメージ通りであり、信じられる仲間がいるからだろうか?
「1カ月に1回ぐらいは、絶対に誰かしらが喜んで子供預かってくれるから。その時は、また俺と杏奈の2人だよ」
幸せで、仕方ない。
マイ・ベイビー ☆ マイ・ダーリン
(思いがけない未来は、まるで幸せが正面衝突してきたみたい)
End.
→ あとがき
|