Nothin' On You - 1/2


side. S



“でも、そういうとこ好き”


笑ってはいたけど、からかっていたわけじゃない。目が合うことはなかったけど、心に向けられた視線は優しかった。
そんな彼女に、そんな彼女の言葉に。まるで返すように、心の中で余りにも自然に、いいな、と思ったことを覚えている。出会ってからそれまで、ずっと持っていた感情を、初めて自覚した時だった。
何かの漫画じゃないけど、たぶんこの時の俺を誰かが見ていたら、間違いなくこう言っただろうと思う。


人が恋に落ちる瞬間って、こういうことを言うんだね、と。



Nothin’ On You
by Sho Sakurai



ケータイのカレンダーを見て驚愕した。たった一言で恋に落ちてから、もうすぐ3年が経とうとしている。



「嘘だろ。3年って…、3年?」



信じられない時間の経過にもう一度数えてみるけど、何度数えたって3年は3年だ。恋に気付くのも遅いけど、そこから進展するスピードも、我ながら凄まじく遅い。
定期的に一緒に仕事をして、良い友達関係を築き、恋愛面でのサインも互いに送り合っている。分かりにくくても、分かり易くても、あらゆる点でフラグは立っている。
にも拘わらず、この微妙なラインに留まっているのは、やっぱり覚悟が足りない自分のせいなんだろう。
唯一の救いは、好きになった相手が自分と同じくらいワーカホリックだったということだ。確認しなくても、あの働きっぷりに特別な相手がいるとは思えなかった。



「なんだこれ…。情けね…」



誰もいない夜の地下駐車場。やっと仕事が終わって帰ろうとしていたのに、突然襲いかかってきた現実に、思わず運転席でがっかりしてしまう。ケータイなんて確認するんじゃなかった。
何度したか分からない、自分から自分への恋愛偏差値での評価は、たぶん今が一番最悪。こんなんだから、共通の友人たちにも呆れられるのだ。



「杏奈、まだ起きてっかな…」



ハンドルに突っ伏したまま、ケータイを操作する。メールでも電話でも、一番に名前が出てくる相手。積み重ねた時間の証。何をしていても、心の中で何度も名前を呼ぶ、たった1人の人。
それなのに、どうにかしなきゃ、という焦りが湧き出て来ない。他の男が彼女をさらっていってしまう可能性が無いわけじゃないのに、自分の心はどこかいつも平穏だ。
一緒に居ると凄く楽しい。時には不意打ちでドキっとさせられることもある。嫉妬だって、したくないけどすることもある。でも、強い衝動に駆られることは無かった。



「…杏奈?ごめん、こんな時間に」

≪翔ちゃん?別に大丈夫だけど…。なーに?≫



ボタンを押して、3回コール音が鳴って、好きな人の声が耳元で響く。こっちの心境なんてお構い無しの、いつも通りの無邪気な声。
でも、それだけで唇の端が上がってしまうし、心もあっと言う間に満たされてしまう。だからこそ、より自分が持つ“好き”という感情が正しいのか分からなくなる。
もっと、狂おしいぐらいに彼女を求めたっていいはずなのに。



「いや、特に用事は無いんだけどさ」

≪えー、何それ。だったら、もう寝るよ、私≫

「はははは!いや、ごめん。ちょっと待って」

≪ふふ。何?≫

「はは…。あのさ、杏奈覚えてる?俺が3年前に、仕事でちょっと失敗して、軽く落ち込んでた時のこと」

≪そんなことあったかな。記憶に無いよ。そもそも、翔ちゃんが失敗してるっていうイメージがあんまり無いし≫

「そう?結構してるよ、失敗。3年前のその時も、他の人にとっては大したことなかったかも知れないけど、自分的には大きかったの。だから、覚えて無くてもいいから、ちょっと俺の話聴いてもらっていい?」

≪うん、分かった≫



こんなこと言って、こんなこと訊いて。一体何の意味があるんだろう。
恋に落ちた時のことなんて、当事者以外にとっては、ただ過ぎて行った時間というだけでしかない。たとえ、自分にとっては忘れ難い感覚で、もう絶対に味わえない出来事だったとしても。



「あん時ね、すげー悔しくて仕方なかったの。自分がしたことに後悔は無いし、今も間違ってるとは思えないんだけどさ。でも、周りはそういう風には見てくれないから非難されて。言い返したくても、そうすればもっと状況悪化するから沈黙を守ることしか出来なくて」

≪…なんか、思い出してきたかも。あったね、そういうこと≫

「うん。でも、そん時、杏奈だけが肯定してくれたの、俺のこと。いや、肯定したってわけじゃないかも知れないけど」

≪ふふ、そーだっけ?それは、よく覚えてないな≫



予想通りの言葉。でも、俺の頭と心には、鮮明に残っている。


価値観が一緒だとか、自分のことをよく分かってくれるとか、そんな単純な理由で好きになったわけじゃない。ただ、いいな、と思ったのだ。
咎めるわけでもなく、俺の失敗を面白可笑しく振り返り、結局最後には、あんな言葉で全てを収めてしまう彼女を。あんな言葉で、自分の中にあったわだかまりや孤独感を、全部消してしまった彼女を。



「でも、凄く嬉しかったし、安心したんだよ。これでいいんだ、って思えたの。杏奈のおかげで」



何度試しても上手く説明出来ない。恋に落ちるという出来事が、こんな些細なことで出来ているとは思わなかっただけに、余計に説明し辛い。
でも、そんな風に人に接する彼女を瞬間的にいいな、と思ったことだけは確かな事実だった。
ドキドキさせられたとか、クラっと来たとか、そういう分かり易い類の落ち方では無かったけど、間違いなく恋に落ちた瞬間だった。誰にでも出来ることじゃない。



「うん…、だからさ…」

≪うん?≫

「なんて言うか……」

≪うん、何?≫

「あ゛ーーー…」

≪翔ちゃん?≫

「…どう言えばいいんだろーなぁ、これ…」

≪えー?≫



自分が思っていること、何もかも話したい。そういう強い衝動だったら、いつも感じている。でも、彼女をどうこうしたいというわけじゃない。
あんまり自分らしくない発想だけど、彼女だったらどんな自分でも受け入れてくれる安心感が、そうさせている気がした。何を言っても、またあの時みたいに笑ってくれる気がしてしまう。


どんなに唐突でも。どんなに脈絡がなくても、きっと。



「…なんかさ、特別なんだろうな、って」

≪え?≫

「杏奈って、俺にとってそういう人な気がして仕方ないの」

≪そういう、人…?≫

「うん。いつも隣にいてくれる感じがするっていうか。俺、杏奈とだったらずっと一緒にいれる気がするなーっていうか」

≪……≫

「そんな人なんじゃないかな、って。だから、それをちゃんと伝えとこうって。今思ったから、そうしてみた」



まるで、恋に落ちた時を再現するような自然さ。
声が震えるわけでもなければ、妙な汗をかくこともない。耳を澄ませても、大きく心臓が鳴る音は聴こえない。電話をする直前も、会話が始まった時も、こんな着地点を考えていたわけではなかった。
こんな自己満足な告白をしておいて、彼女を傷つけたくないとか、護ってやりたいとか、どこか彼氏然した想いが自分の中にあることにも驚いた。
一体、どんな恋愛してんだ、俺。



≪ふふ…!何それ≫

「はは。突然ごめん。驚いた?」

≪うん、少し。でも、嬉しい。でも、電話で言うことじゃないよね、こういうことって≫

「ねえ?こういうとこがダメなんだろうなぁ、俺」

≪ふふふ。顔見て聴きたかったよ≫



それなのに、彼女の笑い声が耳をくすぐった瞬間、やっぱりいいな、と思ってしまう。予想通りの反応にも、意地悪なダメ出しにも、凄く“好き”を実感する。
具体的な説明をすることは出来ない想いだけど、だからといって妥協しているわけでもない。ただただ、彼女だから好き、なんだと思う。



≪ふふ。じゃあね、私も言う≫

「え?」

≪私、誰かに好きになってもらえるなら、自分が好きだと思えることをやっている姿を見て、この人いいな、って思って欲しいの≫

「!…」

≪そういう自分を見て、いいな、って。そういう風に好きになってもらいたい。それが、自分にとっても一番好きな自分だと思うから≫

「いいな、…って?」

≪翔ちゃん、前にそう言ってくれたんだよ。仕事してる時の私、生き生きしてて好きだ、って。いいな、って言ってくれたの≫

「そうだっけ?」

≪うん。だから、私も翔ちゃんとならずっと一緒にいられるな、って思うよ≫

「……」

≪特別、だね≫



心を読んでいるような、繰り返されるフレーズ。ほんの少しこの想いも整理されて、ほんの少し分かり易くなった。
自分だけが感じていたわけじゃない、理屈抜きの“好き”を相手も感じてくれていたことを知って、心臓も一度だけ大きく跳ねた。でも、嫌じゃないし、怖くもない。
たぶん、それは彼女も同じで、だから特別という言葉に返して笑った俺に、同じように笑い返してくれるんだろう。正しく特別な人、だと思う。



「ねえ、とりあえずさ。今から会わない?そっち行っちゃダメ?」

≪それ、非常識。今何時だか分かってる、翔ちゃん?≫

「ははは。気持ち伝えた途端、そのリアクションってなかなかガード固いね。本当にダメ?」

≪うーん。今夜は帰らないつもりで来てくれるなら、来てもいいけど。ふふ≫



笑ってはいるけど、からかっているわけじゃない。目が合っているわけじゃないけど、心に向けられる視線は優しい。
でも、いいな、と思うだけじゃない。今はあの時のように、自分もこう言って笑い返すことが出来る。



「杏奈の、そういうとこ好きだよ。凄く」



それでも、こんなことを言える相手は彼女だけだ。





End.


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