Good-night, - 1/2


side. M



1年前だったら、仕事以外でこうやって会うことは無かった。
半年前だったら、色々と理由をつけて、それがデートだと君は知らないまま、俺も君が好きなんだと気付かないまま、一緒に出かけてた。
3カ月前だったら、何をしても、何を言っても、きっと君は応えてくれなかったと思う。俺は、それだけのことをしたから。


だからこそ、今、凄く感謝している。君が、こうやって会って、俺とデートしてくれているってことに。



「すげー。超綺麗だな。水族館なんて小学生の時以来だけど、大人になった今の方が楽しめるかも」

『私も久しぶりですけど…、確かにそうですね。物の見方とか、広がってると思うし』

「うん。見てて面白い。なのに、ごめん。俺のせいで、時間ギリギリになっちゃって」



水槽の中で泳ぐ1匹の魚から、彼女へと視線を移し、謝る。
平日の閉館1時間前に入った水族館に、ほとんど人気は無い。薄暗い館内は、まるで本当に海の底にいるみたいに穏やかだ。



『いえ、気にしないで下さい。十分見れてるし、楽しいです』

「でも、俺から誘ったわけだし。…本当は、こんな下らないミスするつもりなんて無かったんだけど」

『…!…』

「…せっかくの杏奈とのデートだもん。俺だって上手くやりたいよ」



そう言って、隣で巨大な水槽の中を見つめる彼女を、今度は視界の端で捉える。
俺はほんの少しの言葉ですら、発する度に、間違ってないかと怖れているのに、対する彼女の横顔に変化は余り無い。しいて言えば、僅かに気まずさが見て取れるぐらいだ。
そんな彼女の様子に苦い想いをし、それでも心に触れるのを怖れたくないと思うのは、いつも俺。悔しいぐらいに美しい瞳で何を見ているのか。同じものを見たくて必死になるのも、いつも俺の方だ。



「来てくれて、…ありがと」

『いえ…』



――― どうすれば、俺と同じくらい、君は俺を好きになってくれるんだろう。



約1年前、仕事で知り合った彼女は俺の4つ年下で、身長は160センチも無い。小柄で、柔らかい笑顔が初めて会った時から印象的だった。
元々あった仕事上での才能とセンスはもちろんのこと、控えめにしているからこその魅力的なルックスは、彼女だけの特権。
加えて、誰とも違う価値観と考え方。もしかしたら、男心をくすぐるような純粋さもあったのかも知れない。いや、きっとあった。
結論から言えば、そんな彼女の良さに気付いたのは俺だけじゃない。でも、一番に気付き、認め、惹かれたのは、絶対に自分だったと思ってる。



「…何やってんだ、…俺」



そこまで考えて、自分に呆れる。
まるで子供みたいな発想。俺らしくない。どっちが先に、誰が先に恋に落ちたかなんてこと、関係ないのは分かってるのに。
こんなことを繰り返してると、3カ月前と同じように、また身勝手に彼女を傷つけることになる。それだけは、もう二度と、絶対にあっちゃいけない。



『どうかしたんですか?』

「! 、…や、何でもない。…やっぱメインだけあって、この水槽が一番見応えあるね?」

『ふふ、そうですね。あの…、ずっとサンゴの周りをうろうろ泳いでる魚がいて、凄く可愛いんです。あの、…ピンクのサンゴのところにいる魚で』

「ははは。うろうろ、って。ずっとあの魚見てたの?あの辺が住処なのかな?」



彼女が指差す先には、蛍光色のブルーの小さな魚が、何匹も優雅に泳いでいる。
予定より遅れて入ることになった水族館だけど、2人っきりのシチュエーションと、声を潜めてする会話はどこか親密な気がして、悪くはない。それに、ようやく同じものを共有出来た。


それが嬉しくて、もっと彼女との距離を縮めたくなる。
でも、そこで感じる彼女は何もかもがリアルすぎて、今の俺にとってそれは、どんな事柄よりも確実なブレーキだった。



『ここにいる魚たちは、ここが海だと信じてるのかな…』

「さあ、どうだろ…」



綺麗で透きとおるような髪も、華奢な肩も、長くて濃い睫毛も、温度のある肌も、唇も。
自分が持てる、全ての五感を使ってそれらを感じてみたい。でも、無理矢理手を伸ばして触れたことで、3カ月前、彼女を傷つけている。
虎視眈眈と狙う他のライバルたちを見て、焦ったが故の未熟な行動。
どうにかしてここまで持ち直すことが出来たけど、形式上の挨拶だけで、会話は疎か、目も合わせてもらえない日々は、もうご免だった。


後悔でいっぱいの3カ月前の出来事。けど、そんな苦い過去でも、良かったことは一つだけある。

彼女が、俺の気持ちに気付いてくれた、ということだ。



「なあ…。こんな風に訊くと、また杏奈のこと困らせちゃうんだろうけど、訊いていい?答えたくなかったら、何も言わなくていいから」

『…!』

「…こうやって会ってくれるってことは、俺にもまだ可能性がある、って思っててもいいんだよね?少なくとも俺は、…なんつーか、そういう意味っていうか、そういうつもり…覚悟を持って、杏奈をデートに誘ってるからさ…」

『……』

「“好き”には、まだ程遠いのは分かってるけど…」



今日のデートに誘ったのは1週間前。
彼女に恋してる、と気付いた後も何度か2人で会ったことはあるけど、恋愛面ではとことん人の気持ちに鈍感な彼女にとって、それは“デート”じゃない。
だから、俺の好意を知ってくれた上でする今日のデートが、本当の意味での初めてのデート。
そして、俺がわざわざそうする意味を彼女がきちんと理解してくれているなら、今言った解釈は間違っていないはずだった。


“デートして欲しい。そうやって一歩ずつ進んでいかないと、杏奈に好きになってもらえない気がするから”


我ながら、必死すぎるデートの誘いだったと思う。でも、だからこそ、彼女が来てくれたのが嬉しかった。



「この前も言ったけどさ。…俺はすげー好きだよ、杏奈のこと。特別っていうか…たまらなく惹かれてる。でも、杏奈が簡単に俺を好きになってくれるとは思ってない。自分のせいだけど、信用に値してないってことも分かってる」

『っ、そんなこと、』

「思ってない?でも、良くないことをしたのは事実だから。…反省してる。けど、だからと言って杏奈を諦めるっていう選択肢は持って無いんだ。やっぱり、杏奈のことが好きだから」

『……』

「迷惑だとは思うけどね」



俺が笑って言葉をそう締めると、彼女が目を見開き、ほんの少し頬を染めたような気がした。
今日を迎えるまでに、何度こんな告白をしたか分からない。その度に彼女は同じような反応をし、自分の価値に理解出来ないような、戸惑いの表情を浮かべる。
でも本当のところ、一番余裕が無いのは、やっぱり俺なんだろう。


常に理性を求めてる、ギリギリの状態。他の男と話してるのを見るだけで、嫉妬心に苛まれそうになる。
この前会った時は、“まだ俺のこと好きにならない!?”なんて口走ったおかげで、1人になった時に思い出し、嫌って言うほど羞恥心を味わうことになった。
それでも、何度も何度も生々しい彼女のエロティックな夢を見ては、酷く恋に落ちてることを痛感する。こんなに人を好きになったのは、生まれて初めてだった。



『なんで、私なんですか…』

「え?」



返ってこないだろうと思っていた声がして、彼女を見る。
独り言のような、呟くようなその問いは、以前だったら逆に、“なんで俺じゃダメ?”と訊き返してるところだ。



「はは…。それを知ってもらう為に、こうやって色々努力してんだっつーの」



――― でも、今はそうは思わない。今はただ、彼女に釣り合う、彼女に相応しい人間になりたい。ただ、それだけだ。



そんな中、3カ月前には考えられない和やかな2人での空気と、目の前にある美しい海の世界を堪能していると、閉館のアナウンスが鳴り響く。
これでもう、今日出来るデートの半分は終わってしまうんだ、と気付き、無意識にため息を吐いた。
でも、彼女に急ごうと声をかけて向き直った瞬間、館内の薄暗さと、水槽の青白いライトが作る影のコントラストは、仰々しいまでにロマンティックで、同時に寂しいことに気付いた。


まるでデジャ・ヴュのようなその感覚は、どこかで見た景色に似ている。



『松本さん…?』



彼女が足を止めた俺に振り返り、不思議そうに見る。その様子にデジャ・ヴュの正体を知って、ハっとした。


この1年、事あるごとに彼女と出かけ、その度に帰りを車で送り届けた、古めかしい洋風の外観を持つ彼女のアパート。
車を降りた彼女は、俺が同じように降りて見送ろうとするのを、車のヘッドライトとオレンジ色の街灯の中で、律儀に待つ。
そして、送ってくれたことにお礼を言い、俺も“戸締りしっかりな”なんて言った後、彼女は俺を見据えて、いつも笑顔で残酷なことを言い放つのだ。



“おやすみなさい”



「杏奈…?5秒だけ、俺にちょうだい?」

『え?……!!』



承諾を得ないまま、彼女の右手を引き、もう片方の手で頬と顎を支え、その唇にキスをした。
傷つけたくないし、困らせたくもない。もっとワガママを言えば、嫌われたくはない。でも、あの言葉が頭の中に鳴り響いた瞬間、居ても立っても居られなかった。



「悪ぃ…」



宣言通りの5秒間の後、文字通り目と鼻の先にいるはずの彼女を見ることも出来ず、俯いて謝る。
正にギリギリ、必死で正気を保ってる。これ以上何かあったら、ウェハースみたいに砕けてしまうような、そんな感覚だった。



“おやすみなさい”

そう言われる度に、俺が密かに失望してることに気付かないほど、彼女はバカなんだろうか。
ただ話をして、食事をして、安全な距離で楽しんで、笑って別れればいいなんて、本当に俺が望んでると思っているんだろうか。
どれだけ気持ちを伝えても、応えてもらえない恋愛に酔っているとでも…そう、思っているんだろうか。


いや、そんなわけない。



『松本、さん…?』

「…ごめん。…行こ?」



なぜなら、そのまま俺が足を進めると、躊躇いながらも、彼女が後ろを付いてくる足音がするから。
3カ月前の過ちとまではいかなくても、同じようなことをしたんだ。怒って当然だし、寧ろ怒ってくれた方がマシだ。なんだったら、こっちから喧嘩を売ってもいい。


でも、そうしてくれないから、俺は期待する。
たとえ、今日もまた、“おやすみなさい”と言われても、まだまだ、この先に未来はあるんだと期待してしまうのだ。



「杏奈…。好きだよ、本当に…」



焦りたくない。無茶をしたくない。台無しにしたくない。

それでも、君が欲しい。凄く。





Good-night,

(何度でも期待して、何度でも失望させてくれていい。いつか好きになってもらえるなら。)





End.


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