“madly, madly...” - 1/2
≪2日間だけ、日本に帰れることになったから≫
そう言って、和は一週間前に一方的に電話を掛けてきて、一方的に電話を切った。 2日後にはどの便の飛行機に乗り、それが日本時間で何日の何時何分に着くのか、詳細に綴られたメールが送られて来た。 そして、たった一文、たった一言。当たり前のことであるかのように、迎えに来てね、の文字があった。
いつだってそうだ。いつだって、和はそんな風に私に接する。いつだって。
「あれぇ?ここって、CDショップじゃなかったっけ?」
通常よりも、ほんの少し小さめのスーツケース。それをカラカラと引きながら、賑やかな街中を2人で歩いていく。 日本の外に出るにしても、戻って来るにしても、そのサイズは小さすぎるんじゃないかと思うけど、訊くよりも先に、そんな多くの荷物なんてこの人には無いか、と自己完結させる。
『そんな店、和がイギリスに行って2カ月後にはもう潰れたけど。その後に…、確かネットカフェになって、今は、』
「今はオシャレ美容室?っはぁ…。これだもんなぁ」
ため息を吐いて、もっともらしい言葉を紡ぐけど、その瞳にも声にも、無くなってしまった店を惜しむような感情は見えない。 和は物に執着しないから。だから、荷物も少ない。だから、この身軽さがある。引いているスーツケースと同じで、軽さと無機質さがあるのが和の特徴だ。 そして、それは物だけじゃなく、人にも執着しないからだと、私は知っている。
「あ、そうだ。今日の夜、知り合いの店に挨拶しに行くって約束したんだけど、杏奈も行くでしょ?」
『え?』
「一瞬日本に戻るんだ、って言ったら、顔出せってうるさいのよ。ほら、映画館近くのご飯屋さん。ご馳走してくれるらしいから、夕食ついでに行こうかなって」
『…そう』
「夕食代も浮くし、悪くないでしょ?」
『うん…』
私を誘ってもくれるし、誘う理由も説明してくれる。でも、返事は聞かないし、求めることは無い。 和は私がどう動くか知っているから。だから、今日もゲートを出た時に私が待っていたのを見て笑った。だから、今も私のアパートに向かって歩いている。 私が迎えに行く車を持っていないことも、アパートに泊めるなんてまだ一言も言っていないことも、和は知っているはずなのに、…だ。
知らないフリして、全部知っている。でも、私は何も聞いていないし、何も知らない。
「それまで、映画でも観て時間潰そっか」
『…うん』
私が和と呼ぶ彼は、2年前まで私の恋人だった人で、2年前に私の元恋人となった人だ。別れた理由は明確でもあり、同時に不明確でもある。 突然イギリスに行くと言われ、なんで?と訊くと、舞台の勉強がしたいんじゃない?と返されたからだ。 まるで最初から何も無かったようにあっさりと関係は断ち切られ、気付けば音信不通のまま2年が経ち、和も私も2年分歳を取った。 それなのに和のルックスは何も変わらないままで、再び私の前に現れ、何も言わずして隣を歩く。
なぜ、日本に戻ってきたのか。なぜ、その期間を私の側で過ごすのか。なぜ、肝心なことはいつも説明してくれないのか。 これを読んでいるあなたはなんで?と訊くかも知れないけど、私に答えられるはずがなかった。 だって、和は知っているかもしれないけど、私は知らないことばかりだから。
『和…』
「ん〜…、…なーに?」
そんなことを考えながら、与えられた2日間の内の1日は予定通りに過ぎていった。でも、そもそもこの2日間すら、本当に私に与えられたものなのか分からない。 なのに、私は貴重な有休を取ってまで、友達との先約を断ってまで、和との時間を優先していた。きっと、それすらも和は知っているのに違いない。 もう恋人でもないのに、なんて割に合わない関係なんだろう、と思う。
『…何でもない』
「ふーん…。そう?」
カーテンの隙間から漏れる陽射しに、目を細めて私を見る。 くしゃくしゃの髪の毛も、規則正しい呼吸も、子犬のような寝顔も、隣で感じるのは久しぶりだった。和と2人で潜るベッドはいつだって心地良くて、そのまま、もう一度目を閉じたくなる。 でも、ただ隣で眠るだけで、触れることなく夜が過ぎていったのは、やっぱり2年前のような関係じゃないと、和も私も知っているからだ。
「…杏奈、なんで香水変えたの?変えたよね?」
『…うん。そうかも』
「前の方が似合ってたのに」
そう言って目を閉じたまま、香水の香りを確かめるように、距離をほんの少し縮める。 私はその言葉の意味を考えた後、ズルイ、と思う。
今の私のことなんて、何も知らないクセに。何も訊かないし、何も教えてくれないし、なのに傷痕だけは残していくクセに。 いつだってそうだ。いつだって、こんな感情に苦しむのは私の方だ。いつだって、和は涼しい顔をして、そのままいなくなる。消えちゃう。いつだって、私ばっかり。
『…こっちの香りの方が好きなの。それに、似合っているかいないかなんて、和にはもう関係ない』
「……うん。そーね」
冷静に、でも必死に言い返せたのは、そんな言葉だけだった。 そして私以上に冷静な和は、ニヤリと笑って、私の乱れた髪を直してくれる。
――― もう時間だ。起きないと。夢から、醒めないと。
『…ねえ、何時の便で帰るの?』
「ああ、23時ぐらいの。夜中なの。だから、夕食は一緒に食えるよ」
『そ…っか』
「うん」
コーヒーの香りが漂う中、瞳だけを動かして、そう答える。 手は、ほとんど何も入っていないスーツケースを整理する為に動かされており、それを見て、また何も残していってくれないことを思い知る。
和は人のテリトリーには入ってくるけど、自分のテリトリーには中々入れてくれない。だから、付き合っていた時も私のアパートに来るばっかりで、和の家にはほとんど行ったことが無かった。 それなのに、別れた後に自分のこの部屋を眺めて知ったのは、和が居たという痕跡が少しも残っていないということだった。 唯一あったのは、ベッドに残った和の匂いだけで、今回も、きっとそれだけなのだ。
匂いはすぐに消えて、和もいなくなる。それで終わり。でも、それでいい。
「杏奈、仕事は?上手くいってんの?」
『まあまあ、かな。…和は?私よりも不安定な生活送ってるくせに人の心配するなんて、相変わらず余裕で、なんかムカツクんだけど』
「んははは!何、その言い方。素直に受け取りなさいよ、俺の優しさを」
『ヤダ』
「んふふふ。本当は嬉しいくせに」
荷物を元通りにし、アパートを出て、なんとなく街中の散歩をし、2年前との変化を和は楽しんでいた。少なくとも、私の目にはそう映っていた。 けど、別れまで残り数時間。せっかく良い店で一緒に夕食を食べているのに、こんな会話しか出来ない虚しさを、私は感じていた。こんなんだったら、さっさとイギリスへ帰ってしまえばいいのに、とさえ思っていた。
だって、結局私の質問には答えてなんかくれないんだから。 大丈夫なの?なんていう、案じる言葉さえもはぐらかされてしまうんだから。
「…ま、いーよ。上手くいってるんだったらさ。んふふ」
『……』
和のそのセリフで、このシーンにはカットがかかる。知る権利も与えられないまま、夕食の時間は終わり、残すは本当のお別れの時間だけになる。 なんて短い2日間だったんだろう、と思い、よく考えたら実質2日間も無かったことに気付く。
ふいに、大声で叫びたい衝動に駆られた。
『…っ、……』
いったい、何なのよ!?なんで帰って来たの!?なんで、一瞬でも私の側に戻ってこられたの!?なんで、そんな涼しい顔をしてられるワケ!? 私のことなんて好きじゃないクセに!私のことなんて、何とも思ってないクセに! だったら、私のことなんて構わないでよ!その気も無いのに、思わせぶりなことばっかりしないでよ! だから早く!早くお願いだから、私を手放して!私を前に、進ませて!それが出来ないんだったら、もっと、もっと、もっと……、
「杏奈?」
『……!、…何?』
空港行きのバスターミナル。バスはもう目の前にあって、他の乗客も次々と乗り込んでいく。 和のあのスーツケースも、私の視界の端で、運転手によって運び込まれていた。
ああ、もう本当にお別れじゃない。
「何?、じゃないでしょーが。俺の話聞いてなかったわけ?」
『…どうせ、大した話じゃないくせに』
「んははは。それは、俺が判断出来ることじゃないから、杏奈に任せるけど」
『……何?』
「んー?好きだよ、って」
『……は…?』
「愛してるよ、って。杏奈のこと」
『………』
「…そう言ったの。んふふふ」
耳を疑うような言葉に、それまでと変わらない声のトーン。 でも、確実に私の心臓がつまずくのを感じる。もちろん、本当につまずくわけじゃない。鼓動が1回分停止して、それから躊躇いがちに、また脈を打ち始める。
和は、私の知っている笑顔のままだ。
『な、に…それ…』
「ん?」
『……っ、なんで!…なんで、今更そんなこと言うの!?』
「………」
『っ、……なんで…、』
「……杏奈、」
『…だって、もう……、』
ここは空港行きのバスターミナルで、私の目の前にはバスがある。和のスーツケースも、持ち主より先に乗り込んでいる。あとは、バイバイと言って別れるだけのシーンなのに。 なのに、今更こんなことを言うなんて、卑怯だ。別れる瞬間にこんなことを言うなんて、卑怯だ。それなのに、感情が見えないなんて、卑怯だ。
ズルイ、ズルイ、ズルイ。
『っ、…はぁ…っ、…!…』
「杏奈……」
ここが公共の場所じゃなくて、自分のアパートの部屋だったら、クッションなり、食器なり、投げ付けていたかも知れない。 ムカツクぐらい落ち着いている和を前にして、私は罵る言葉も出せなく、ただただ苦しい。でも、無意識に流れていた涙は、確実に和の笑顔を哀しいものにさせていた。
これも、知らない。こんな笑顔は、見たことない。私。
「なんで、…って……」
『………』
透明な瞳に、少し高めの余裕のある声。でも、苦くも感じる。時計は音を刻み、なのに周囲はスローモーションだ。 一瞬伏せられた目は、また私を捉える。そして、気付いた。
和の、こういう言い方は知っている。 でも、そこに隠されている想いが私の求めているものだったことは、知らなかった。
「こう言えば、わざと泣いてでもすれば、俺に付いて来てくれるかな、…って。そう、思うから」
これが、この人の狂おしいぐらいの愛情表現。ずっと、私の欲しかったもの。 でも、もう何も出来ないことを、彼も私も知っている。
「…バイバイ、杏奈」
だから、こんなにも哀しい。 だから、もう本当にお別れだ。
“madly, madly...”
(調子を崩せない彼の、精一杯の狂おしさ。)
End.
→ あとがき
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