知らない名前 - 8/9
side. M
不安が的中した、と思った。 休憩室のドアを開けようとした瞬間に聴こえてきた声は、さっきから続く、俺の違和感そのものだ。
『ふふ…!じゃあ、オムライス作って待ってるね、翔ちゃん』
不自然なまでに俺たちから逃げるので、つい追いかけて来てしまったけど、その声と話す内容に、謎は深まるばかりだった。 静かにドアを開けて覗いてみると、そこには知っているけど知らない女。 無邪気な笑顔にキラキラした瞳。どこか柔らかい口調は、1週間前には確実に存在していない。何より、声を出して笑うなんて、そんなことあっただろうか。
「ショウ、ちゃん…?」
「…!…」
確かめるように呟いた声が聞こえ後ろを向くと、いつの間に追いかけてきたのか、相葉くんが立っていた。 目の前に広がる不思議な光景に表情は硬く、俺のことなんて視界に入っていないも同然。それでも、たった今、自分が発した聞き慣れない名前を必死に噛み砕こうとしているのが、手に取るように分かる。 そして俺は、そんな相葉くんを見て、ようやくずっと感じていた杏奈の違和感の正体に気付いてしまう。
『っ、…潤、雅紀…!』
知りたいけど、知りたくない。でも、訊かずにはいられないし、訊かなくちゃいけないと思った。 俺たちに驚く杏奈は電話の余韻もあるせいか、どこか瞳が優しい。手には小さな紙切れがあり、それを大事そうに持っている。
まるで、そこに書かれていることが、今の自分にとって一番の宝物だと言わんばかりに。
「杏奈…。さっき訊き損ねたから訊くけど、お前今どこに居んの?」
『……』
「この1週間どこに居て、何してたのか、そこまできちんと説明して欲しいんだけど。ケータイすら買い換えてないヤツが、新しく住む場所探してたってわけじゃねーだろ…」
『……』
「“ショウちゃん”って、誰?」
核心を衝くようにその名前を出すと、杏奈の瞳が微かに震える。同時に、信じられないほど色も帯びていく。 いつも見ていたはずの冷めたオッド・アイが、無性に恋しくなるぐらい、杏奈の想いが見えた。
――― なんだこれ。すげームカツク。
『それは、ごめん…。今度、落ち着いたらまた話すから、』
「っ、だから!それがそもそも、どーいう意味だって訊いてん、」
『っ、大丈夫だから!!』
「何が大丈夫なんだよ!だったら、今きちんと答えろよ!」
『だから今は無理だって…っ!!』
「ま、マツジュン!杏奈…っ!」
互いの言葉を何度も遮り、堂々巡り。気付けば、俺も杏奈も、声がどんどん荒ぶっていく。
いつもだったら、別に気にしない。他の男の名前が出てこようが、隣に居ようが、どうせそこにある感情も理由も俺と同じだ。 ただ、寂しいだけ。ただ、独りでいたくないだけ。 でも、だからこそ直感的に、突如現れたその名前の持ち主が、今までとは違うんだということに気付かされる。 だって、その相手に杏奈が抱いている感情は、俺や相葉くんが杏奈に対して抱いているものと、全く同じなはずだから。
『っ、ごめん…今日はもう帰る…!』
「杏奈!?」
「おい!ちょっと待てって!」
必死に止める声も虚しく、杏奈は乱暴に押し切って、再び俺たちから逃げていく。 追いかけようにも、廊下を走っていくその後ろ姿が心を掻き乱して、どうにも上手く走れなかった。あんな顔を見せられて、心を保てるわけがない。 僅か1週間で、こんなにも状況が様変わりしてしまった現実だ。簡単には受け入れられるはずがなかった。
しかも、俺たち2人も、大きく巻き込んで。
「誰、だろ…。“ショウちゃん”って…」
「…!…」
杏奈の走り抜ける足音も聴こえなくなった後、その廊下を見つめたまま、相葉くんが小さく呟く。 何度もリピートされるその名前に、今までひた隠しにしてきた感情が一気に溢れ出した。もう、なりふり構っていられるような、そんな状況じゃない。
「さあね…。でも、これだけは相葉くんに言っとく」
「俺…?」
「…悪いけど、もう遠慮しないから。相葉くんにも…“ショウちゃん”にも」
「…!…」
胸が熱くなる。迷いなんて無い。そうじゃないと、闘えない。 たとえ今、あのオッド・アイに自分が映らなくても、そんなことは関係無いと、その言葉を口にした瞬間思った。
だって、まだ始まったばかりだ。
「本気で行くよ?俺」
こんなふざけた非常事態も、知らない名前も。 全部、俺が消してやればいいだけのこと。
その為だったら、傷つくのだって覚悟の内だ。
End.
→ あとがき
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