知らない名前 - 7/9


ロッカーから置きっ放しにしていた荷物を取り出した後、電話をする為に休憩室へ向かう。
でも、それまで使っていたはずの稽古着が、今の自分にそぐわないような気がして、結局ゴミ箱に投げ入れてしまった。
建て直しの為にアパートを出ることになった時、必要な分だけの家具や服をコンテナに預けたけど、それらも結局同じ運命を辿っている。
あれだけの物があったのに、結局持ち帰ってきたのは、ずっと大切にしている黒のキャップだけだった。



『“杏奈”…?』



公衆電話の受話器を持ってダイヤルをする直前、小さく呟く。


22年間、その名前で生きてきたはずなのに、たった1週間ちょっとで、こんなにも自分の名前に反応出来なくなるとは思わなかった。
ずっと翔ちゃんにハナと呼ばれていたせいか、潤と雅紀が呼ぶ杏奈という名前に違和感すら覚える。
でも、今からこの瞬間、間違いなく私は“ハナ”だ。



『ふふっ…。翔、ちゃん…』



家の住所に二つの電話番号。その内の一つを確認しながら、書いてもらったメモの上で踊る、正しく男子な字を見て笑う。
メモを見ながら公衆電話で電話をするなんて、我ながら小さい子供みたいだ。
でも、こんな経験をしたことの無い私には、それすらも凄く特別なことに思える。たかだか電話をするだけなのに、バカみたいにドキドキしている、この感じが凄く。



『090…、』



何か、特別な用があるわけじゃない。潤の醸し出すオーラと威圧感に耐えきれなくて、逃げて来ただけかも知れない。
でも、だからこそ翔ちゃんの声が聴きたかった。翔ちゃんの声を聴いて、心を落ち着かせたかった。ハナで、いたかった。
ボタンを一つずつ押してダイヤルしながら、“そうだ、今日の夕食について訊こう”、と思う。そして、無機質な発信音が何度か繰り返されている間、心の中で何度も同じことを唱える。


早く、早く出て。早く出て、翔ちゃん。



≪…はい、櫻井です≫

『翔ちゃん?私…、』



電話越しで聴く翔ちゃんの声に耳がくすぐったくなり、心臓もドキっドキっと合わせて音を鳴らす。
でも心地良いその感覚は、翔ちゃんに出会って初めて知ったもの。翔ちゃんだけが、私に与えるものだった。


もちろん、未だにその正体は掴めない。でも……、



≪ハナ?どーした?何かあった?≫



――― ほら。やっぱり今は、その名前でいる方がしっくりくる。






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