知らない名前 - 3/9


side. M



「杏奈、どうしたんだろ…。まさか、事件に巻き込まれたりしてないよね…?」



休憩時間、隣に座る相葉くんが小さく呟いた。
水分補給の為のペットボトルは手の中で既に汗だくになっていて、その水滴がさっきから床に滴り落ちている。



「さあ…。あと、2日。それでも見つけられなくて、連絡も取れないようだったら警察に届けるしかないんじゃない?俺たち2人じゃ無理でしょ、それ以上は」

「っ、…うん。だね…」



そう言って、ギュっとペットボトルを強く握る。手は、微かに震えていた。


深夜の突然の着信から、約1週間。俺たち2人は、一緒に通うダンススクールのスタジオに居た。
選択しているジャンルはヒップホップで、プロを目指す本格的な養成学校。相葉くんはもちろん、僅かに登録されているケータイ番号の多くの持ち主が、ここで知り合ったヤツらばかりだ。
レッスンが終わり休憩時間の今、何が珍しいのか、俺たち2人の2ショットに女子がキャーキャー言っていて、周りはうるさいぐらい賑やかな声が響く。
でも、俺たち2人はまるで通夜のように静まり返り、その原因は外でもない、たった1人の女のせいだった。



「てかさ…何で相葉くんは自分の家に来い、って言ってやんなかったの?そっちの都合は知らないけど、それぐらい平気だったでしょ?何度も泊めてんだし」

「っ、もちろん、そう言うつもりだったよ!でも、言う前に杏奈いなくなっちゃうし、俺も他の女の子に声かけられたから無視出来なくて…っ!」

「……」

「っ、…それに、もうマツジュンに相談でもしてんのかな、って思ってたから…」



普段は温和な相葉くんが、思わず語気を荒くするぐらい本気になるのが、同じダンススクールの仲間である杏奈。
抜群のルックスと、妙に冷めた態度。左右違う色をした瞳は何を考えているのか全く読めないけど、気付くと強く惹かれている。
それだけに、あいつの周りで群れる男は後を絶たない。そして、本当は無関心なくせに、杏奈もそんな男たちにフラフラと付いていく。
たぶん、俺や相葉くんと同じで、あいつも断る理由が無いんだろうな、と思う。



けど、だからと言って、ここまで連絡が途絶えるのは、俺たちの間では初めてだった。
あれからずっと、暇さえあれば街へ探しに行ったり、しつこくケータイを鳴らしてみたり。特定の友人がいない杏奈を探すには、これぐらいのことしか出来ない。
でも、結局杏奈の姿は見つけることが出来なかったし、電話もバカなオペレーターが同じことを繰り返すだけだった。



「…んなわけねーじゃん」



そして、今。八つ当たりとしか思えないような文句を相葉くんに言うぐらい、俺もこの状況に相当参っていた。


相葉くんの話によれば、杏奈の借りていた部屋があるアパートが、老朽化の為に建て直しになったことが、そもそもの始まり。
昔住んでいた場所だか何だか知らないけど、生活の居場所を奪われ、杏奈はかなり落ち込んでいたらしい。
そんな様子を見兼ね、励ましのつもりで誘ったクラブで、まさかこんなことになるなんて予想するわけない。
そういう意味で言えば、相葉くんが必死になるのも無理はなかった。それが好きな女なら、尚更だ。



「…俺にそんな弱味を見せるような真似、杏奈がするわけないでしょ。相葉くんにならともかく。…出来る限り避けたいって、たぶんそう思ってるよ、あいつは」

「そんなこと…!」

「分かんだって」



杏奈が姿を消したことは、もちろんヤバいと思ってるし、もし何か事件に巻き込まれてる可能性があるなら、早く何とかしてやりたい。
でも、それ以上に密かに打撃になっていたのは、こういうことだ。


何にも知らない、何にも教えて貰えない、頼りにさえしてくれない。
どんなに危機迫っている時でも、どんなに近くにいても、杏奈が俺に助けを求めることなんて絶対に無い。
それが余計にムカついて、イライラして、焦らせて……、



「分かるんだよ、見てれば…」



――― 哀しくて、仕方なくなる。俺だって、こんなに好きなのに。






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