トリップからの現代


「名前…?」
「どうして、私の名前…」
「言え、貴様は本当に名前か」
「私の、名前は――」

自分の名前を口にしようとすると、途端口からはひゅーひゅーと息の通る音だけが聞こえる。私はどこなのかも分からない土地で自らの名も口に出来ないまま何故か私の名を知る男性に刀を喉元に向けられ、空から降り頻る雨と彼の流していた赤い涙に打たれていた



「何故あのようなところにいた」
「気付いたら、あそこにいたんです」
「あんな身形でか」
「だって、コンビニに行く途中だったから」

私は気を失っていたらしい。目が覚めたら知らない天井の下高価そうな布団に包まれ横になっていた。起き上がると直ぐ隣には私と同じかそれよりも幾分年下の銀髪に長い前髪の、袴を履いた目付きのキツい男の子が胡座を掻きながらじっと目線をこちらに向けていた。改めてここが何処なのか分からない。いつの間にか着替えさせられ所謂寝巻き、と言っても私が着ていたスウェットなんて代物ではなく薄い浴衣のような何か。温泉に泊まりに行くと部屋においてあるもののもっと高級な感じの、そんな浴衣姿で起き上がった私にその男の子は蚊の鳴くような声で問う。彼はじいと私を見ているのに彼の目は、まるで死んでしまったように色を無くして見えた。

「貴様の言葉が理解出来ん。一体今までどこで何をしていたのだ」
「そんな、事を言われても。私はありのままを伝えただけですよ」

「ありのままがこれか。3年もの月日行方を眩ませたかと思えばこの様だ。さしずめ、家康の安否を確かめに来たというところだろう?だが彼奴はもういない。この世にあの男は、いない」

彼の声を遮ることが出来なかった。徳川一代目将軍、今目の前の彼のいうところの家康という男がまるでつい先程死んだと言わんばかりの表現をするのも、その家康の安否を私が確認しに来たことも、3年どこかに行方を眩ましていたという事自体、全て否定してしまいたいのに、目の前の彼があまりにも悲しそうに苦しそうに、虚無感募らせながら言うものだから私はその言葉をただただ聞いた。一通り話し終えた彼は一息つくと、それでも言葉を発しようとしない私の喉に短刀を突き立てた。ギラギラと私に殺意を向けるその刃は私を酷く怯えさせるのにも関わらずそれを握り締めている彼からは一切の恐怖を感じない。おかしな話かもしれないがその刃が主の意思に代わってひとを殺めようとしているように見えるのだ。但し主にその意思は無い。無いというよりも、失ってしまったといった方が正しいのかもしれないが。私が布団の中に入れていた手をもぞもぞと動かすと彼はびくりと肩を震わせる。別に彼を殺そうなんて思っていないのに。それに私にそんな力はない。彼の反応をそのままにゆっくりと取り出した手を彼の頬に触れようと伸ばせば彼は存外、拒否をせずそれを受け入れた。冷たい頬から伝わる温度は微量かもしれないけれど、それでも彼が生きていることは間違いのない事実。なのに心は枯れてしまっているかのように何も感じられない。

「貴方は…「三成様、衣服を」

やっと言葉を発しようとしたところで、部屋の外から渋い声が聞こえてきた。きっと年配の方なのだろうそのひとは、私の目の前にいるこの男性の事を三成様と呼んだ。彼が短く返事をすると素早く襖が開きちょんまげの、口髭の特徴的な中年の男性が色の綺麗な着物を手に後ろにつく何名かの女性と共に姿を現した。三成様、と呼ばれたそのひとはその姿を確認するや否や立ち上がろうと腰を上げたので無意識に、その服の裾に手を伸ばしてしまった。ここがどこなのかいつなのかは分からないがそんな私でも、彼以外言葉を交わした者がおらずそれがつまりこの世界ですがる事の出来る唯一の人物だという事くらい理解が出来た。だから彼がこの場を去ったが最後、ここにいる者に殺されてしまうのではないかという恐怖が私の心を支配した。勿論、目の前で目を見開く彼にだって何度も刃を向けられはしたけれど、それでもこうして溜め息をつきながら服の裾を思いきり握り締める私の手を取り大丈夫だと諭してくれる彼しか、今の私にはいない。

「いつまでも寝巻きでいる気か貴様は」
「でも…」

見ず知らずの私に、という言葉は私の喉を通る事なく沈んでいった。その前に着物を着た女の人たちが私を囲んでしまったからである。それを背に部屋を去ろうとする彼を見ながら、どうしてこんなにも私に優しくてくれるのだろうかと心底悩んだ。普通ならこの格好のせいで今頃とっくに殺されているだろう。それなのに綺麗な衣服を与えられ部屋を与えられ、着付けの仕方が分からない私をそのままにどんどん作業を進められるものだから、私の周りで丁寧に着物を着せてくれている綺麗な女の人達を横目に私は頭を抱えた

「あのう…」
「はい」
「私の事を、知っていますか?」
「勿論、名前様の事を忘れた日は御座いませんよ」

途方もない質問をしてしまったと後悔した。私を知るひとなんてこの世界にはいないのだと分かっているのにも関わらず、出会い頭に三成様、と呼ばれるそのひとに私の名前を言い当てられたせいで混乱しているのだ。ここへ来るのは初めてであるし三成様、とやらに会った事も一度もない。目の前で最後の仕上げに取り掛かろうとするこの女の人なんて尚更、見たこともない筈なのに、そのいかれた質問への返答はイエス。私を知っていると、忘れた事がないと彼女は言った

「終わったか」
「はい、三成様。とてもお似合いで、昔と変わること無くお美しいですよ」

そんな言葉を残し、去り際に微笑みながらその綺麗な女の人達は行ってしまった。彼女達の言葉に頭を悩ませていたせいでお礼のひとつも言えなかった私が慌てて閉まる襖に向かって頭を下げると、不意に背後にほんのり藤の匂いを感じた。それが三成様、という男の人の香りだと分かるのにそう時間は掛からなかった

「名前、もうどこへも行かせやしない」
「どうして貴方は、私を…」

背中に伝わる温度は苦しい程に温かい。首に巻き付く腕を解く術を私は知らないから。だから全ての疑問を捨ててただ直ぐそこにある彼の手に自らの両手を添えた。私の愚行を、私が置いてきてしまった世界に住んでいる家族や友人が見たら笑うのだろうか。異国の地で嘆く事もせず、知らない男の人に抱き締められ振り払う事もしない私を浅はかだと嘲るだろうか。だけど振り向いた私の目に写った私を通して何かを見ようとする虚ろな彼の目を、どうしてもそのままにしては置けない気がしたのだ

「三、成…さま…?」

先程から皆が呼ぶ名前を見様見真似に口にする。目の前の彼の素性は知り得ないけれど、相手は私を知っているのだから敢えて口に出してみれば何かが分かる気がした。案の定、目の前の彼はその細い目を大きく見開き信じられないと言わんばかりにかぶりを振った

「昔のように、私を呼べ」
「は、?」

「あの頃のように三成、と私を馬鹿にするかのような口ぶりで笑え!!!この石田三成の名を、呼べ!!!!」

彼信じられないくらい大きな声、先程までの虚ろな目をした彼は一変、今の大声のせいで彼の頬は赤く紅潮している。驚いてすくんでしまった私を見た彼は再び、私の手を取ってうつ向いた。石田三成、それが彼の名前なのだろうか。うつ向いたまま顔を上げようとしない彼の綺麗な銀色の髪を見ながら私はその異変と闘った。私の知る歴史では徳川が死ぬ頃石田はとうに、その何十年も前の戦でそれこそ徳川によって斬首されているのだから。どこか変だ。

何かが間違っている

「三、成」
「…名前、私は貴様の事を離さない」

噛みつくように、彼の薄い唇が私の唇を奪った。冷たい、彼の唇は何故かどこかで一度経験があるように感じられるのはどうしてなのだろうか。

彼が一度唇を離しもう一度私に唇を寄せた時、突然視界がぐにゃりと歪んだ。目の前の彼はしきりに私の名を呼ぶのが分かったのだけれど、もう声は聞こえず、ただただ彼の唇の感触だけが私の体を蝕んだ

「 姉上 」

視界が真っ暗になった最後に、彼の声が聞こえた



「…ここ、は」
「名前!!!!!」

目を覚ますと見覚えのない白い天井の下に見慣れない衣服を身に纏って横たわっていた。ここがどこなのか分からない。ゆっくりとその重い目蓋を開けきった時、周りから声が上がるのを聞いた。何故か体が鉛のように重いせいで起き上がろうと力を込めてもその体勢が変わることはなかった。声の主を私は知っている、私の母親だ。他にも父親や職場の上司、友人が私を囲んでいることに私はようやく気がついた。

「名前、貴方の気持ちは分かるわ、でも強く生きなくちゃ駄目よ」

母親はようやく父親の力を借りて起き上がった私を見ては、瞳いっぱいに涙を溜めながらそう口にした。気持ち、気持ち。途端私の心が悲鳴を上げ出す。胸騒ぎがするのだ、このまま忘れていればいいのにも関わらず、もうすぐ私の記憶が帰ってきてしまう。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

思い出したくない


「婚約者の徳川くんが、亡くなったって聞いた時は、母さんも父さんも凄く驚いたのよ。犯人、早く見つけなくちゃね」


私の婚約者、徳川家康は先日、帰宅途中に何者かの手によって殺された。思い出してしまった、そうだ私はそれで、悲しくて、悲しくて。毎日泣いたんだ。彼の葬式に参列した時も、彼の両親に会ってまた泣いて、彼との最後の別れでまた泣いて。本当に本当に愛していた、私の婚約者

「ねえ、お母さ…」

また溢れ出しそうな涙を堪えて母さんを見上げた私は、全身の血の気が引いて行くのを感じた。暖かい筈の病室、喜んでくれる周りの知り合い達は私にとってかけがえの無い存在。
その中に、いるのだ。

石田三成が

「ん?あ、そうよ。貴方の事心配してわざわざ大阪から飛んできたんだから。久しぶりだし姉弟二人で話でもしたらいいじゃない。母さん達は先生のところに行ってくるわね」


ぞろぞろと皆が挨拶をしては病室から姿を消して行く。そうしてばたん、と病室のドアが閉まった。目線の先には、夢の中で見た石田三成が表情もなしにこちらへ近付いて来ている。おかしい、私に弟なんて、いた覚えがない


「姉上…名前、もう貴方をどこへも行かせやしない」


その冷たい腕が私を抱いた
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