私は目が悪い。眼鏡を外すと目先にある物の全貌すら掴めないのだから、寝る前以外の殆どを眼鏡と共に暮している気がする。家族友人その他大勢の誰よりも、眼鏡。最近の若い人は無くなっては困る備品に必ず携帯電話を入れるらしいのだけれど、私の場合はむしろこれ以上目を悪くする要因である携帯電話よりも遥かに、眼鏡の方が重要だし必要不可欠だと思っていた。


それもついこの間までの話である。

どこかに迷ってしまった時携帯電話が無いと連絡が出来ないという理由で親に新品の携帯電話を強請る子供がいるが、私がその子供と同じ年齢の時はどうせそういう言い訳で他の子が持っているし、インターネットは使いたいし何よりそれを持つだけで大人になれると錯覚するから少しでも新しく少しでも余計な機能のついた媒体を欲しがるだけなのだと少しばかり冷たい目線を投げながら、携帯電話が欲しいと嘆く同級生を見てきた。そうでなくとも目の悪かった私に親はある程度の年齢になるまで携帯電話を与えてはくれなかったし、なくて困った。という経験はそれ程多くない。確かに大学に進学した時各地から集まった知り合いに番号を聞かれた時家に置いて来てしまっていたら申し訳ないと思ったし、ゼミの集まりに遅れる時に家に忘れてきてしまった時も少しばかり戸惑ったけれど、だからこれが必需品だと思う認識は、無かった。就職してからはそれでも、だいぶ自分の中でこの媒体に必要性を見いだすようになったのだけれど、それでも眼鏡の方が何倍も私には重要視すべきものだった。

「ここ、は」

ところが、どうしたものか。今私は何処なのか分からない森の中に立っている。先程仕事帰りに夕飯に使う材料を近くのスーパーで購入し帰路に着いた筈だった。あの家の角を曲がればそこは家のマンション、の筈だったのだ。それがどうだ、今目の前に広がるのは壮大な森林。現代社会に飲まれた私がもう何年も目にする事のなかった、木々の集合体。夜なのか辺りは薄暗く月明かりだけが私の位置を教えてくれている。悲鳴を上げる事すら忘れ、私はその木々を縫うように照らす月明かりを見上げていた。

「今日携帯、家に置いてきたんだった」

初めて携帯電話が手元に無い事を後悔したかもしれない。現在地を確認する事も出来なければ誰かに助けを求める事も出来ない状況にまさか自分が陥るなんて、露程も思わなかったからだ。大都会の中で迷子になってもどうにかなるのが世の常、しかし突然放り出されたかのような森の中で、成す術等ない。

「最悪」

ただ眼鏡を通してだけ世界が開けて見える事だけにひたすら感謝を述べつつ、これ以上何処へ行く事も叶わないだろうと空を眺めた。あまりにも突然過ぎる事に、思考が追い付いていないという事だけは理解が出来た。通勤用の鞄にはいくつかの書類、そして化粧ポーチにチョコレート。両手に持ったマイバッグには一週間分の食品だけが詰め込まれている。これで何か打開出来る予感など全くしない。緊張の為か空腹感は感じないものの、少しずつ頭の中を侵食していく絶望感が、いよいよ全身を駆け巡り始めた時だった。

「Hey, テメェ一体此処で何してやがる。」

人の声が、聞こえた。恐ろしいのは自分の心で、今こうして誰かがこの地で自分を見つけてくれた事への感謝よりもこの深い森の中に人間がいるという事への疑心を抱いているという事だった。夜に、こんな深い森の中に人がいるなんて事は普通、有り得ない。どういった理由でこの地を踏むことになったのか、ドラマや小説ばかりを読み耽る私の想像はあらぬ方向へ向くばかりだ。

「Hey,俺の声が、まさか聞こえてないとは言わせねえぜ?その奇怪な身形、奥州に何しに来た」

確かに宮城県付近は昔奥州と呼ばれていた頃があった。しかしそれは戦国乱世の話であって、現代に宮城をそのような名前で呼ぶ人は少ない。いやほぼいない。それに私の居住地は宮城では無い。確かにスーツを着て森の中にいるのは奇怪な事かもしれないけれど自殺願望者だとは思われたくなかった私はゆっくりと、月を眺めていた視線を声のする方へ流した。

「?!その、服、馬」

声が引き攣るのが自分でも分かった。年若い男が一人、馬に乗ってこちらをじっと見つめている。青い鎧は照らされて反射しているのが私の恐怖心を更に煽った。普通の人じゃない、事だけは分かる。それに腰に差しているものは、と回らない頭を一生懸命回転させ対峙している相手が誰なのか考えたところで答えは出ない。

「あ?俺の質問に答えな、さもなくば、you shall die」
「そんな、こんなどこなのかも分からない土地で、私、死にたくない」
「!?お前、南蛮語が、」

嫌だ嫌だ嫌だ。こんなところで死にたくない。どうして自分がここで死ななければいけないのだろう。そんな理不尽な話、聞きたくない。せめてどうして自分がここに来ることになったのかくらいは分かってから死んでしまいたい。そんな思いを馳せている内に、突然視界が暗くなった。

何も分からないまま遠退いていく意識の中で、先程の青い鎧を見に纏った男の人の乗った馬が近づいてくる音が聞こえた。男の人はしきりに何かを呟いていたけれど、もう私にその声が届くことはなかった。
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