傷付いた掌に接吻を | ナノ


傷だらけの掌に接吻を  


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昔よく遊んだ三河の幼子はその小さな体では支えきれない程大きな「くに」を背負い民を守る主となった。ひとりでは背負い切れぬと、その幼子には相棒や部下と呼ぶにはあまりにも大きすぎる仲間が与えられ、「くに」の統治を図った。幼子は頭が良く純粋でひとびとに好かれる人懐っこい性格をしていた。故に三河は暫しの間安泰を保っていた。

豊臣、秀吉と互いの刃をぶつけ合うまでは。

三河は豊臣との合戦に破れた。大将が死に残党だけで最後まで戦い全滅を余儀なくされるか、豊臣傘下へ下るか。苦肉の選択だったに違いない、好きな菓子を選べと言われているわけではない。そこに暮らす民の一生の在り方を選択しなければならなかったのだ。幼子は悩み苦しみ、そして選んだ。民の安泰が約束される支配という名の敗北を。その決断の後、三河は豊臣軍としてその身を投じる事になったのである。

それから何年も何年も、幼子は豊臣傘下にある者達と共に戦った。考えても見ればその幼子も豊臣も願いはひとつ、この日ノ下を統一し安泰な世を築く事。その願いが豊臣の下で叶うのならばと、幼子は懸命に戦った。幼子は豊臣傘下にいる間にみるみると成長を遂げた。少し前に会った頃には無かった武士としての風格が、いよいよ全面に出てくるようになった。幼子はもう幼子では無い。誰もがその強さを認める、徳川家康となったのだ。

「名前、名前はいるか?」
「はい、家康様。わたくしはここに。今お帰りになられたのですね」
「ああ、今回の戦はどうも、長丁場になりそうだ。」
「左様に御座いますか。どうか御無理をなさらずにおいで下さい。貴方様はまだあまりにも幼い」
「ワシはもう竹千代じゃあないんだ、名前。それにお前だってワシといくつも変わらんだろう?」

久方ぶりに城に戻った家康は真っ先に名前の名を大声で呼んだ。もしかしたら未だ殿としての風格は無いのかもしれない、誰に頼むことをせずひたすらに名前と呼び、遂に現れた本人を前に満面の笑みを浮かべた。自室に戻り身に纏う鎧を脱ぐ事もせずに置かれた一枚の座布団にどっかりと腰掛け目の前にいる人物を見上げてはまた笑った。以前よりも成長が見えるその体格は逞しくもありまたその笑みは、痛々しい。家康は豊臣傘下にある様々な武将らと共に戦へ赴いては勝利を納めている。しかし、戦へ出陣すればする程、勝てば勝つ程家康の表情が色褪せていく事を名前は感じていた。否、感じずにはいられなかったのだ。そうしていつか自分へ向けるその笑みさえも失われただ戦うだけの術になるのではないかと名前は恐れた。

「名前」
「は、なんで御座いましょう」
「もしかしたらワシはこの先事を起こすやも知れない。それは大きい事だ。もしかしたら、いや確実にここも危険に晒される事になるだろう。だがそれが未来の為になる。大安の世の、為になるとワシは、信じている」

緩んでいた家康の表情から笑みが消えた。閉めずにいた障子の向こう側にある美しく手入れされた庭を見やりながら目を細める家康の言わんとしていることが、名前にはなんとなく感じとれた。

反旗を翻す

つまり今まで遣えていた豊臣へ異を唱え己が信念の為にその者達と刃を交えるという事。簡単な事ではない、決して安易に成し遂げられるものではない。敵わないかもしれない勝てないかもしれない死ぬかもしれない。家康が成そうとしている事に対する代償は、計り知れないくらい大きいかもしれない。しかしそれを家康は未来の為だと口にした。未来のために戦うのだと、きっと名前がとやかく言う前に決めてしまっているのだろう。だから名前はただ、家康の視線を追うように眺めた。

「秀吉公が成そうとする世に残るのは力のみ。力により鎮圧し統制し天下を取る。だがワシには、それがただの支配にしか見えんのだ」
「支配、に御座いますか」
「ああ。だがワシは力での支配には衰えが訪れまたそれに反抗する者が必ず現れると思っている。それでは延々と同じ事が繰り返されるのみ。日ノ下はいつまでも、変わらぬまま安定する事は無いだろう。だからワシは、それを、変える」

変える、と意気込んだ家康の目は相変わらず笑ってはいなかった。しかしその瞳の中に見えた闘志を信じてみたいと、名前は目を細めた。

「力でなければ、家康様は一体何を以て、それを成すのです?戦国の世に通じるのは最早力のみ。それは権力でも人望でも策略でもない。力であると、豊臣様は仰いました。現に今、日ノ下を統治するのに一番近いものが力。必要とされ信じられるものも、力に御座いましょう。しかし貴方様はその力ではいけないと仰る。ならば、」
「絆だ」
「きず、な?」
「そうだ。ワシとお前にもある強い絆、それこそが日ノ下を統べる唯一の存在だと、ワシは信じている」

今度こそ呆気に取られた名前の膝上に置かれた手をゆっくりとその大きな両手で包み込む。季節にも関わらず温かなその両手の温度が失われぬよう、守らなければいけないと家康は握り締める手に力を込めた。この温度を、民を守り抜く為に自らは戦うのだと思えば怖くは無い。不思議と負の念が脳裏をよぎる事は無かった。背水の陣だろうが四面楚歌だろうが、成し遂げられる、否そうしなければいけないのだと改めて感じた。相手が例え戦友であっても己が主であっても、もう、民を力のみでの支配から解放しなければならない。その為なら、自分は

「ワシは武器も防具も捨てる」
「な、にを」
「この拳ひとつで民の武士の主の、理解を得よう。この拳ひとつで、ワシはお前を守る」
「いえや、す様…?」

「そうしてもしもワシがこの業を成した時、ワシが無事に戻ってきた後、名前に、聞いて貰いたい話がある」

家康の覚悟を、妨げるものは無かった


それから家康はあっと言う間に豊臣秀吉を討ち取った。その出来事は日ノ下全域に瞬く間に広まり、武将達の注目を買うことになった。これ見よがしに天下を狙うもの安泰が訪れると安堵したもの、それを憎むもの。様々な強者が猛者が、自らの地位を守らんとばかりに名乗りを上げた。合戦はそこからだった。家康は言葉通り、拳ひとつで日ノ下を渡り歩いたらしい。直接ではなく民から口々に聞くのはいつも苦戦、苦戦、苦戦。敗走を余儀無くされた事もあった再び訪れた苦肉の選択に悩んだ事もあった。そうしてあと一歩までたどり着いた家康が最後に合間見える事になったのは嘗ての、友だったと忍から聞いた頃には名前の齢も、前回家康に会った頃より2つ半増えていた。争いは終わった。家康は、自らが望んだ世界をつくる第一歩を踏み出すことに成功したと言えるだろう。東軍総大将、先の将軍と詠われ名を上げられ称えられた主の姿を見ようと城には城下からありとあらゆる民や武将が集まった。その中に、名前の姿は無かった

「名前、名前!!」

家康は集まった民や城の者との対面をそこそこに、人々の解散を待たずに家康は声を上げた。変わらぬ声で名前の名を呼べば、丁度角をを曲がったところから尾を引くようにゆっくりと、ずっと一目会いたかったその人が顔を出した。こちらに顔を向けまいとそのままそこに正座する名前の姿を確認するや否や家康は彼女の正面へと赴き片膝をついた。周りの視線が集中する。それでもそれを気にも止めんとばかりに家康は名前の手を取った

「名前、帰った」
「お帰りなさいませ、家康様」
「ワシは、勝った」
「ならばその、歪んだお顔をなんとかしては下さいませんか?まるで泣き出しそうな赤子のような」

その顔を、と口にする事は叶わなかった。その前に家康の大きな体が名前の華奢な体を力一杯抱き寄せたせいなのは一目瞭然で、また家康の行動を咎める者がいないことも、皆が知っている事実だった。

家康は勝った。戦には大勝したのかもしれない。だが引き換えに彼は大きすぎる程大切なものを失ってしまったのだ。それは決して欠けてはいけない絆の一欠片だったのかもしれない。家康は優しくなりすぎたのかもしれない。友を助けたいがあまりに彼は自らその全てを失うことを選んだのかもしれない。

「家康様」

離れようとしない家康の体を半ば無理矢理離し先程まで捕まれていた彼の手を今度は自らの手で握り締めて初めて、名前は家康の拳の大きさを知った。武器を棄てこの手ひとつで勝ち取った掌は昔見たような綺麗なものではなくて、まめや傷でその形を歪ませていた。この手で民を守ると、ついた傷はきっと彼の戦の歴史になるだろう。でもせめて、これからこの傷が古傷になり痛みを発しないようにと願いを込めて、その掌に自らの唇を落とした

「貴方様は、まだ大人では無いのですよ。だから」

泣いて下さいと、その体を今度は自らが力一杯抱き締めてやった

傷だらけの掌に接吻を

「ワシとこれからも共に在ってはくれないか」

落ち着いた家康はいつもの声で態度で堂々と、家臣や民の前でそう口にした。まだ大きな戦いからいくらも経っていない、大きな城での出来事

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