short | ナノ

 


強いという定義を決めたのはどこの科学者だったか思想家だったか。はたまたその定義自体、辞書を作るときに集められた人間が曖昧なそれを無理矢理定義するために思い付いたひらめきなのか。とにかく強いという定義は非常に曖昧で適当でどんな場合にも応用されてしまうようなもののくせに人々はそれを好んで使うらしい。例えば、

「伊達くんまた喧嘩して勝ったらしいよ」

「流石、強いもんね伊達くん!」

「元親くんもだって!」

「あのひとたちうちの学校のツートップだしね」

こんな感じに。
確かに喧嘩は強いか弱いか、これは間違いではない。但し喧嘩に対して適応される言葉故に喧嘩が、強いだけであってそれがイコールその人間自体の強さにはならない。自分本来の弱さを隠すために喧嘩をするのだという者もいる。暇潰しに喧嘩をする者がいるくらいなのだからやはり喧嘩が強い事がそのものの強さには繋がらないのかもしれない。我慢という言葉はもしかしたらそのものの強さに繋がる最も近いものなのかもしれない。何故ならそれは我慢に対して使われる言葉ではなく我慢をしている人間をいう言葉だからだ。何を言われても何をされても何かの為に口を割らない、やり返さない、のは本人の強さではないのかと思う。しかし言わないのではなく言えないのではないのか、やり返さないのではなくやり返せないのではないのか。自身の意思に反する我慢は強さではない。弱味を握られ恐れているだけだ。自己犠牲はどうだろうか。自分を犠牲にしてでも守りたいもののために動く。これは、強い。だけど自己犠牲を逃げだというものもいる。残された者はどう思うか。勿論感謝に泣くものもいるだろうが残された者のなかには明日への希望を失ってしまうものもいる。しかし犠牲になった者は関係がない。自分はその状況から離脱したのだから。

「強い、ねえ…」

「何を考えている」

「あ、石田。ねえ石田、強さって何?」

「どうした突然」

机に手をつき顔を覗き込んでくる男の名前は石田三成。クラスメート。彼は強い人間なのだろうか。個人的に彼は弱い人間だと思っている。自身の恨み辛みを全て一点へ向けやめようとしない。それに彼は自分を弱いと嘲笑する。自分が認めているのだからそれはやはり弱さの証拠なのではないか。

「石田はさ、何で自分が弱いと思うの?」

「大切な人を守れなかった。大事な時期に傍にいてやれなかった。それが不憫で仕方がないのだ。私のせいで、私は大切な人を失った。」

「ふうん」

「だから二度と同じ過ちを繰り返さないように。この苦しみを忘れないように、そして必ず復讐するために、私は立ち上がる。何度でもな」



なんとなく、彼が一番強いのではないだろうかと今ふと思った