short | ナノ

 


「いや、いや…きえ、さん…?」

私を20年育ててくれた、母親も同然だったそのひとからの言葉は確かに私の耳に響いた。否応なしに納得をさせられるのがどうしようもなく窮屈で自らの両耳を塞いだ。目をきつく瞑り自らの筋肉の流動でぼおおおっと鳴る真っ暗な世界の傍らできえさんの声が聞こえ続ける。信じていたのに、とは裏切られた者の遣う言葉である。そんな言葉をこの心が感じる日が来るとは思っていなかった故にその衝撃はまるで私を殺してしまうかの如く大きく強かった。そんな筈がないと反論をしてしまいたい。何か嘘をついていて、きっとこれは何かの間違いで誰も悪くはない。それなのに目を開ければ旦那様に押さえつけられているきえさんがいて、現だと思い知らされる。自分の足だけでは立っていられない私がこうしていられるのは石田様がずっと私の腕を掴んで下さっているおかげ。

「貴様らは、そこまでしてこれを守りたかったのか」

追い討ちを掛けたのは、石田様が懐から取り出し投げ捨てるように床に叩き付けた小さな紙の折り。但しその紙は薬種問屋で置いている白いものではなく雨雲に淀んだ空のような色のものだった。叩き付けた衝動で散らばったものはその紙の色には似つかわしくない真っ白な粉だった。さらさらとまるできめの細かい砂糖のようなそれから香る甘いものはない。おかっぴきの方々が頭を悩ます裏通りに迷い込んでしまった時一度だけ目にした事のあるその白い粉の名前を私は、知らない。勿論それが何故ここにあるのかも分からないしこれを、きえさん達は守りたかったという石田様の御言葉の意味が分からない。否、理解をしたくないのだ。つまるところこの白い粉を上から隠すために私は売られたという事であり一包でひとをそれ以下の何かしらに変えてしまう恐ろしいその白い粉と私を天秤に掛け、挙げ句私ひとりを贄に助かろうと宿の皆が一致した、という浅ましい現に胃から込み上げてくるものを抑えられない。

「ゆ、ゆるしてくれ…名前や、し、仕方が無かったんだ…女将や旦那様に言われて…」

「お前だけ卑怯だぞ!名前、俺だって本当は…」

「名前、私だって…」

今にも吐き出してしまいそうななにかを懸命に堪えながら今度は私が石田様から離れないようにと腕を回す。しかし何も考えたくなくてただ目を伏せようとする私の元へ使用人だった男がひとり、すがるように足元に寄ってきてそんな言葉を紡いだかと思えば同調した周りの者達も次々に私の足元へと寄ってきた。口々に溢すのは仕方が無かったの言葉と罪の擦り付け合い。ひとはなんとも、自らを愛しく思う生き物だろうか。他人のいのちを無下にする事は容易なのに自分の事は愛らしいことこの上無い。許してくれと謝る言葉が死にたくないと重なって聞こえてくるのが私には少しばかり重すぎた。これではまるで皆のいのちが私次第だと言っているようだ。私にそんな権利は無い。それでも助かろうと私に群がりいのちを請う宿の者たちは酷く残酷で狡猾で、憐れだ。


「ならば後の世でこの女への罪を償え」


一瞬だった。
シュンッと風を斬る音が聞こえてきたその後隣に目を向けるとそこには私の腰に手を回し支えるように立っている石田さんの姿があった。そうして遅れるように、ザアアアアッとまるで突然豪雨に襲われたかのような雫が激しく地面を突く音が私の聴覚を揺さぶる。宿の中に雨は降らない。雨の雫に色はない。
私の視界に降るのは、雨ではなく血潮。
今の今まで私の足元で生きたいと声を上げていた者たちの声はひとつも、ただのひとつも聞こえなくなっていた。目の前に降るこの血がいったい誰のものなのか、考えずしても理解が出来た。だから泣こうと嗚咽を洩らしたのに、何故か私の目からその透明な液体が溢れることは無かった。いつ斬られたのか、どのように斬られたのか知りうる事はない。ただ分かるのは目の前に既に廿(にじゅう)を越える人間だった者たちの屍が首と胴体を切り離されていたり無惨な姿に切り刻まれながらごろりと折り重なるように転がっているという事実。

「石田、様…」

「この女に言うことは無いのか?」

息をしている人間は3人、嗚咽の止まらない私を除いて私を女と呼ぶのが石田様であるのならばもうひとりは、唯一私にすがるような真似をしなかったきえさん。首だけになった旦那様を抱える姿を地獄絵図と言わずしてなんと言おう。無慈悲にも声を上げた石田様を見るきえさんからは最早精気など感じる余地も無い。

暫く誰も言葉を発す事無くぽたぽたと石田様の刃から血の滴る音だけを鮮明に聞いている最中、からからとまるで壊れた人形のように突然きえさんが笑い声を上げた。からから、からから。いつものようにおしとやかに笑うきえさんの姿は一変、もうその姿を見てはいられなくて、石田様の半歩後ろに下がって伏せた

「あなたを引き取るなんて言ったのが間違いだったのね、ごめんなさい」

目を伏せていてもはっきりと聞こえてきたその声。謝られているその真意はきっと《あなたなんて拾わなければ良かった。》伏せていた目線を上げると遠くで笑っていたきえさんが距離を半分ほどこちらに詰めてきていた。ゆっくりゆっくり、既にその手に抱えていた旦那様の首は無く無造作に転がる屍を気にも止めず足場にしながら、からから、からから。口を開かない私達の間に広がる音はきえさんの笑う声と、屍を踏み分ける鈍い音、そして血の上を歩いた時に鳴るびちゃ、という不快な音。そうして私達の直ぐ前まで訪れたきえさんの、してしまいそうな事は私でも想像が出来た

「あなただけが死んでいたら、良かったのに」

袖口から取り出したのは小さな包丁。包丁といえど料理に使うような大きなものではなく丈が短く、細い包丁だった。石田様はそれを取り出しこちらに近付いてくるきえさんをじい、と見たまま動こうとはしない。きえさんがその手にある包丁を私に振り上げた時、これも全て私のせいなのだと改めて思った。全ては私のせいなのだ。私が20年前ここへ来た時この宿の者たちの定めは決まっていた。皆今日死ぬために生きてきたのだ。そう思うと自らが憎くて仕方がない。死んでしまうのは怖くて嫌で、なにかにすがってしまいたかったのに、今はこうして死ねないでいることが恐ろしい。だから今ここできえさんに斬られてしまうのならば、その罪を忘れて私も眠れる。だからゆっくりと目を閉じた。もっと早くこの命が果てていたのならば、他の者は死なずに済んだのだ。私の身勝手な恐怖のせいだ。それでも、どうしてか死んでいった者達に許しを乞おうとは思わない。それでも私は、


キィイイインッと高い音が響いた。痛む筈の体は変わり無くここにある。瞑っていた目を開くと目の前には私よりも広く、それでいて線の細い体。息を呑んでその右側に顔を出してみるとそこには刀を弾かれ血の海の上にぺたりと座り込むきえさんの姿があった。


「あなたは、これからひとりぼっちね」

私の目を見てきえさんは言葉ひとつ濁さずに言った。そしてその言葉を最後に弾かれ自らが座り込む場所の右手に突き刺さった刀を手に、きえさんは思いきり自分の腸を突き立てた。ぐじゅ、とさわやかでない音が聞こえきえさんは無意識に歯をギシギシと合わせる。口、鼻、そうしてお腹、全身からゆるやかに血を流すきえさんの目は、もうどこも見えていないのにまるで私をずっと睨んでいるような気がした。

ずさっと、琴切れたきえさんが他の屍の一部になる音がして、全てが終わった。息をしているのは私と石田様のふたりきり。まるで悪い夢を見ているようで残酷な絵を前にしているようで、それなのにこれは真の現なのである。今日の朝まで共に笑い合った者は既にひとではない屍となって動くこともせずそこに横たわっている。きえさんが最後に言った、私は本当にひとりきりになったのだ。もし他の者ではなく私だけが死んでいたらきっと、それでも私はひとりきりだとは思わずに死んでいったのに。石田様から腕を解きもう腐るだけの肉片と化したきえさんの綺麗な頬に自らの指先を寄せる。まだ温かい。それが悲しくて辛くて悔しくて。

なのに残酷な私、涙が出ない

これからどのように生きていけば良いのか。それとも私も今ここで石田様に殺されるのだろうか。きえさんの前にしゃがんだまま首だけを振り返るようにして石田様を見上げると丁度その刀を納められるところだった。

「名前」

石田様の冷たく凍てつくような声が降ってくる。きえさんは結局、石田様が来てから一度も私の名を呼ぶこと無くこの世を去った。呼ぶ者はもういないと思っていたこの名を、石田様は口にされた。なんだか久しく聞かなかったような錯覚を覚える、私の名前。

「私を、どうされるおつもりで…?」

「貴様は私の城へ来い。貴様がここで野垂れ死ぬ事は許さない」

無理矢理抱き上げられるその手は温かい。きえさんや他の者たちのように段々と失われていく再び灯ることの無い温かさではなく、生きている証となる温かさ。抱き寄せて触れた石田様の体はあたたかい。私が今まで感じたことの無い他人の、体温だ。



「名前」

まるで、死んではいけない呪いを掛けられたようだ。この罪を背負って生きて行けと、きえさんは自らの死と引き換えに私に、呪いをかけたのだ

石田様に担がれて宿を出る時、誰かが私の名を呼んだ。石田様だったのかきえさんだったのか、そうではない誰かなのか。もう二度とこの場に足を踏み入れる事のないであろう私にはもう、知る由もない


城へ赴いた私が石田様の正室になったのは、また別のお話