short | ナノ

 

「い、しだ様…こ、ここ、これは…?」

呂律が回らない。人間の死体、それも首の無い胴体と切り離された見知った首を目の前にして正常であれる程私は強くない。戦に出る事の無い私は斬られた死体自体見るのが初めてなのだ、殊更に平気ではいられない。それに本来ならばこの様になっているのは私でなければならないのに何故無関係な使用人が首を斬られたのだろうか。やっとの思いで言葉を紡げば石田様は先程と変わらぬ顔色を浮かべたまま刀についた血を一払いした。

「貴様に見せると言った現だ」

「う、つつ…?そ、んな…首を斬られるべくはわたくしの筈…この方達は関係、ございません…」

斬られた使用人を見てはいられずうつ向いたところで床に広がる血が嫌でも現実を見せる。鼻をつく血の臭いは頭を混乱させるには十分すぎるくらい濃く呼吸が止まるような気さえ覚えた。今度は先程までとは違う、なにか残虐なものを見た時の恐怖驚愕、そして石田様のいうところの所謂現とやらに視界が歪む。ぐにゃりとあらぬ方向に回転結合する私の視界にはそれでも血の色だけが鮮明に浮かんで胃の中のものを全て吐き出しそうになるのを抑えようにも頭が割れそうだ。思わずぐらりとからだを傾かせてしまった自分を酷く憎んだ。傾く世界で私が地に横たわることは無かった。私の腰に細い腕が回され抱き寄せられるように石田様の傍に戻ったからである。端から見れば優しい気遣いにも思えるのかもしれないが私にはまるで此処から逃げる事を許さないよう鎖で繋いでいるようにもとれた。私には、石田様の真意が分からない。

「関係無い?貴様は本当に、根からのお人好しという奴らしいな」

「だって、私だけが徳川の…!」

私が反論の為に声を上げようと石田様を見ると、私は続く言葉を失った。開いた口が塞がらないとはこの事を言うのだろうか、私の腕を掴んだままの石田様のもう片方の手に握られている刀の刃が再び赤く色付いた滴をひたひたと床に垂らしている。音はしなかった。私が何かの間違いだと気をどこかへやる前に再び、今度は年をひとつしか違えぬ私の姉のような存在だったさちが顔色を真っ青に悲痛の叫びを上げた。

「ひ、ひぃいいいいい!」

元々声の高いさちの悲鳴はここに集まる者に一層の恐怖を植え付けながら宿の中をこだました。恐怖という言葉、そういえば何故私以外の宿の人間が石田様を恐れなければいけないのだろうか。殺されるとすれば元々は私だった筈なのだ。確かに巷で妖に取り憑かれたと広まっている石田様を目にするのは怖いかもしれない。目の前でひとが憐れもなく死んで行くのを見れば声を上げるのも理解が出来た。それなのに何故か、何か引っ掛かるのだ。石田様の御言葉もそれは同じで、何かこう、

「い、石田様…!こ、これでは…」

きえさんが大勢集まる宿の使用人の一番後ろから声を上げた。その声は恐怖一色としか言わんばかりでいつも見える頬の桜色も今日は深海のように真っ青だ。私は石田様の手から逃れられぬまま、目の前で倒れる2つの事切れたなにかに目をやらないよう注意をしながら一番距離のある位置にいるきえさんを見た。嗚呼きえさん、いつもなら私が直ぐ傍によってやれるのにと心の中で後悔をした時、私はその違和感に胸を焼いた。いつもとなにかが違うのだ。目の前でひとが死ぬ事は勿論違うとして何かもっと日常的な事が非日常になっている。それは当たり前の事で先ず違った事の無かったなにか。

「きえさん、どうしてそこに…?いつもならば大勢の者とお客さんをお迎えになる時はきえさんと旦那様が一番前にいらっしゃるじゃあ…」

きえさんの声を聞いた石田様がその刀からきえさんに視線を移しゆっくりと口を開くのと同時だった。そうだ、おかしいのだ。いつも一番前にいる筈のきえさんと旦那様があんなに遠くにいるわけがない。宿のしきたりで大勢での出迎えをするとき、この宿を仕切るものを先頭に身内からどんどん並んでいくのが慣わしだった。だから気を遣ってくれたきえさんは身寄りの無かった私を家族も同然だからときえさんの直ぐ後ろに置いて下さっていた。だからきえさんが辛いとき悲しいとき、直ぐ傍に寄れたのだ。それなのに今のきえさんは遥か、遥かまるで違う世界にいるような気がしてならない。何かを避けるようにそこに立っているのは私が死ぬのを間近で見たくない、というよりはむしろまるで何かを避けるように

《 い、石田様…!こ、これでは…》


これでは、約束が違います…?


「どうやらやっと見えたようだな、私が貴様に見せると言った現が」

石田様の声は隣から聞こえてくる筈なのにどこか遠いところから響いてくるような気がした。私の声と石田様の御言葉を聞いたのであろうきえさんがそのぷっくりと厚い唇をゆっくりとおの字に開こうとしていた。きえさんの身体は先程までの私のように毛の先から足の指先までを震わせている。私の心の臓が先程石田様に連れられた時程に高鳴っている。聞きたくない、きえさんの言葉を聞きたくないと心が声を拒んでいるのが分かる。今ここできえさんの言葉を聞けば二度と、昨日までの時を生きられない気がしてならないのだ。もしかしたら私が想像している事はただの妄想で本当は相違う事なのかもしれないのに、まるで体はもう理由を分かっているみたいにその言葉を恐れている。私の思いがただの狂った妄想である事を願う。きえさんや宿の者を疑心するというこのあるまじき行為が無意味だったと自分を責めてしまえたらいいのにと哀願の目をきえさんに向けた時、きえさんがその大きな瞳から涙を流した


「どうして、石田様…何故この宿の者を…!殺めるのは名前だけだと、約束なさったではありませんか…さすればわたくし達の宿の事はその目を瞑って下さると、申したではありませんか…!」



時が止まった
遠くに見えるきえさんの顔は真っ赤に紅潮し興奮と絶望に身を任せて言葉を発していた