short | ナノ

 

石田が妖に取り憑かれたと城下の民が口々に語るようになったのはほんの数週間前の事である。主君への忠誠が故なのかそれとも人を殺めすぎたのか、なんにせよ石田三成という男がこの世ならぬものの意思に支配され狂ってしまったように人を手に掛けているというらしい。慈悲などは存在しないと城下の民は石田を恐れた。同時に可哀想だと嘆く民も現れた。そうすることでしか悲しみに抗えないのだと民は悟った。石田が妖に取り憑かれたという話が民の間で広まったのは、豊臣秀吉が配下にあった徳川に反旗を翻され伐たれたという城の忍の報告が民にも伝わった翌日だった。徳川が豊臣を伐った時、石田はその場にいなかったという。

「名前さん、今日は石田様が城下に降りていらっしゃるそうよ」

「それはそれは、私達と相間みえぬ事を願うばかりですね」

「本当に、豊臣様の一件の事は残念に思うのだけど、それでその癇癪を私たち平民に向けられてはやるせないものね」

「ええ、本当に」

私は城下にある宿に身を置くしがない平民であり石田様をこの目で見た事など生まれてから2度あったかどうか。そしてこれからただの1度でも彼のお方の目に触れる事があるかどうかと言われれば雲の上にある星に手を伸ばすのと相変わり無し。こうして石田様の話をすることが出来るのもあのお方と関わる事が無いと言う確証故の行為であるのに、今日女将のきえさんの口振りが酷く恐ろしくて曖昧に話をやめた。これを越えて話を膨らませれば本当に、妖に憑かれた石田様を目にしてしまうのではないかと心の臓がその音を高く鳴らしたのだ。だからいつも通り軒先に群がる雀を竹箒で追い払いのれんを掛けて何事も無いことを確認しようと辺りを一瞥した。変わらない、それは私にとって幸福であるという証である。

いつもの薬種問屋の大旦那が指揮を取る舟が4艘、それに柳の木の下で瓦板を張り替える上の使いに庄屋の若旦那。道行く旅人の数もいつもと同じで空の色だって変わらぬ青色。日常である。その空の色と店の左右に伸びる緩やかな道のぶつかるところにゆっくりと目を向けたところで私は目を大きく見開くことになった

「き、ききき、きえさん…きえさん…」

慌てて宿の中に戻り走るなと怒鳴り立てる旦那様の声も無視して帳簿に目を通すきえさんの部屋まで駆け込むときえさんはどうしたものかと慌てた様子で帳簿をしまい込み私の元へと駆け寄ってきた。聞こえる筈の無いあのお方の足音がざ、ざ、と砂利を踏んで此処へ向かってくる。今一度考えても見ればただ宿の前を通るだけなのかもしれないのにも関わらず、私はどうしても此処へ訪れる気がしていけない。何故あのお方を今こんなに恐れているのかと言われて思い当たる節が私には、ひとつだけあるのだ。

「大丈夫よ、名前さん。分かりっこ無いもの。貴女が徳川様の血筋だなんてこの宿の者以外は知る由も無いのだから」

ゆっくりと私を抱くきえさんの体は温かい。その温度に身を任せて安心したい筈なのに、私の身体は何かを知らせるかのようにどんどん、どんどんその体温を下げていく。

石田様は、徳川様が豊臣様を伐たれて以降、この地に残った徳川家の血筋のものを否応無しに手に掛けていらっしゃるのだ。私の血筋は徳川本家の血筋、祖母の代で徳川家を後にしてから好いていた商人と縁を結び母を産み、その母さまもまた、商人である父さまと婚姻を結んで私が生まれた。父と母は私を産んで直ぐ世を去ってしまったがその私をこれまで代わりに育てて下さったのがこの宿の旦那様ときえさんなのだ。一生を懸けても返しきれない恩を受けた私がこれしきの事で狼狽えてはいけないと頭では分かっているのに私の唇の色は紫色に変色し座敷に横たえている両足はがたがたと震えた。


「石田様が、宿先に見えた」


がらがらと開いた襖と同時にまるで打ち首を宣告されたかのような旦那様の発言が自分とはどこか遠いところで聞こえた。殿様のお目見え、足がすくんで立てない私を支えてくれるきえさんの手はほんのり汗ばんでいた。



「名前という娘は貴様か」

「は、はい…わたくしに御座います石田様…」

集められた宿の者は総勢廿(にじゅう)余名、石田様のいらっしゃる宿先の前で膝を折り頭を深々と下げて来訪を迎える。石田様は馬にも乗らずおひとりでここに参られたそうだ。宿の者を前にした石田様の放たれた御言葉はひとこと、私を確認するものだった。知られている、私の血筋を知られている。震える体とまるで極寒に当てられたような悪寒に震える唇でなんとか言葉を発すると石田様はそうか、と短く言葉を返された。ここで終わるのかと冷静に考えようにも頭が恐怖に支配されている。床についた両手を強く握り締めると意外にも刀の柄が鳴る音がなかなか耳に入っては来ない

「顔を上げろそして立て。貴様に真の現を見せてやる」

「は…?」

かたかたと震えが止まない私が石田様の発した御言葉の意図を理解できず頭を下げ固く握り締めている手のひらに戦に出るための甲冑や防具を一切身に纏わない石田様の素手が当てられた。外の寒さにあてられほんのり赤みを帯びた石田様の手のひらが私の拳を覆ったかと思えば力強く半ば無理矢理引かれた。体を上手く調節できない私はそのまま石田様に軽々と腰を上げさせられた。足許がおぼつかずふらふらと床を踏む私が石田様の傍に寄せられると目の前に見えるのは腰を折り伏せる宿の者たち。私をこれまで育ててくれた私の親のような存在の者達が一同に身を伏せ石田様を見る者はひとりもいない。

「石田さ、ま…?」

左手で私の腕を強く掴んだまま石田様はゆっくりと腰に挿した刀に手を伸ばすのが視界の端に見えた。今度こそ死ぬのだと目を瞑った。まさか宿の者皆のいる目の前でこのような形式で死ぬことになるとは思いもよらなかったが兎に角、私の命はここ尽きる。返しきれなかった恩もしてみたい事もいきたかった場所もあるがそれは遂には叶わなかった。不思議と涙は出てこない。ただ震える足だけが現実から逃げようとしているだけだ。

そうしていよいよ石田様の刀が風を切り振り上がったかと思うとザンッ、と無惨な音と共に血の噴き上がるシュウウウという奇っ怪な音が耳を掠めた。何かが可笑しかった。斬られている筈の私の耳に音が届く。それどころか最早思うことの無い意識が此処にあり未だに石田様の手が私の腕に絡んでいるのを感じられる。何かが、可笑しい


「ギャアアアア!!!」

「え…?」


突然聞こえた悲鳴に思わず身体がびくりと痙攣した拍子に目を開けると、そこには首が胴体から切り離された嘗ての使用人の男が横たわっていた。斬ったのは紛れもなく石田様の刀。その証拠に石田様の刀にはその首から溢れる血潮が滴っていた