short | ナノ

 

理由の無い感情に組み敷かれては愛想だけを振り撒いて生きる事こそが自分の様だと信じて疑わなかった。それを否定される理由が見つからなかった。それなのに目の前の男はいつもの眩しすぎるくらいの笑顔であたしに言った

「笑ったお前はどうも苦手だ」

笑顔はひとを幸せにするとどこかの誰かが言っていたではないか。それを否定するというのか、現に目の前で男は微笑んでいるのに。その笑顔はひとを不幸にするのだろうか。朝7時半過ぎの教室、2人きりの空間に徳川の声は酷く通って聞こえた。大体朝からおかしかったのだとあたしは推測する。朝の8時前に遅めの登校者ばかり揃ったこのクラスの生徒が教室にいることに違和感を持つべきだったのだ。それも、いつも部活で朝練に励んでいる筈の優等生徳川家康がなんの取り柄もないあたしの席の前に座ってわざわざあたしが教室に来るのを待っているなんて事に対しあたしは何かしらの対策を練らなければいけなかったのだ。それなのにただ普通に挨拶を交わし席についた。その結果がこの様である。何故登校早々こんなことを言われなくてはいけないのか頭の中で懸命に考えてはみたものの答えが見つからない。黙ってじい、と彼に目をやると彼は意外だと言わんばかりに表情を歪めた

「こんな風に言われて、苗字は悔しく無いのか?ワシなら殴り掛かっているぞ」

「されて嫌な事は他人にしないのが人の道理だって、優等生の徳川くんなら知ってると思ったのに!意外だね!」

分かりやすい演技、大袈裟におどけてみせると、彼のいつもの笑顔は何処へ、とても辛そうに目を細められた。

「苗字は、笑ってばかりいるんだな」

「それは徳川くんも同じじゃない?ほら、笑顔はひとを幸せにするとかなんとか言うしさ」

あたしが笑えば笑うほど、彼の表情は綺麗に歪んだ。それはまるであたしを滑稽だと馬鹿にしているみたいで腸が煮えくり返そうになるのを抑えるのに、あたしはまた笑みを浮かべた。あたしの感情表現の殆どは笑顔で構成されている。苛立ちも悲しみも嬉しいのも楽しいのも全て笑みひとつで表すことが出来るのだ。感情の数が少ないわけではない。必要の無い表情を使わないだけだ。それに本当に笑顔がひとを幸せになるなら、鬼のような形相で怒ったり般若のような顔で涙を流すより笑っていた方がずっと、相手にとっても自分にとっても良い筈だと信じている。だからあたしは笑うのに。

「ならば聞こう、お前が本当に楽しい時、その喜びを友は分かってくれるか?お前が悲しい時、話を聞いてくれるか?お前が憤怒に焦がれた時、友も共にその感情を分かち合ってはくれるのか?」

「そんなの、」

当然だ、という一言が口から出てこない。否出せないと言うべきなのだろうか。徳川の放った言葉はあたしの頭にクリーンヒットしたらしい。鈍器で思いきり殴られたみたいな衝撃に思わず笑う事を忘れ目を見開いてしまった。笑う事で確かにあたしの周りには人が集まったかもしれない、だけど確かに、感情を共に分かち合えるような存在の友人は、いない。

「ほら、お前にだって違う顔が出来るじゃないか」

笑わずにいるあたしを見て、今まで目を細めていた徳川が心底嬉しそうに笑みを浮かべた。ひとを安心させるような笑顔。分かってはいるのだ、あたしだって。笑顔はそれ以外の感情があるからこそ嬉しく見えるのであって一層ひとを幸せにすることを。笑ってばかりいても、いつしかひとはそれが当たり前でその感情に幸せを見いだせなくなる事も。それでも、あたしが笑わなくなれば皆が離れていってしまうのではないかと、逃げているという事実だってあたしは、知っている。

「笑う以外の感情表現なんて、誰も欲しく無いんじゃないかな?」

だけど笑う以外自分を保つ方法をあたしは、知らないのだ。だから笑う。すると目の前の徳川は溜め息ひとつ、ゆっくりとあたしの顔にそのごつい指を伸ばしてきた。飽きられたか、なんて頭の中で自分を笑ったかと思えば突然、机ひとつを挟んで向こう側に見えていた彼の小さな顔が目の前に迫っていた

「?!」

「どうだ?ワシは、色んな顔をする苗字が見たいのだがな」

ゆっくりと、ゆっくりと。スローモーションのように流れる時間。唇と唇が重なる瞬間さえ予測出来る。なのにそれを避けきることが出来ないあたしは何かのトラップに填まってしまった馬鹿な雑魚モンスターのようだ。彼の綺麗な瞳に化かされて思わず頬を赤らめてしまった自分はレベル2にも満たないモンスター。目の前の勇者に簡単に攻略されてしまうような自分を心底呪った。離れていく徳川を眺めながら、あたしはただ一心にこいつをどうしてくれようか考えた。

「死んでしまえ」

「はは、そんな苗字が見たかったんだ」

まだ8時前の誰もいない教室で