short | ナノ

 

「寒い」

「貴様この温室にいても尚寒いと抜かすか」

「だって寒いんだよ」

あたしの心が。とは言わない。だってなんか中二病みたいだし。この国にもいよいよ本格的な寒さが訪れ身も心も凍てつくような風が辺りを駆けずり廻る季節が訪れた。とは言ってもここ数年の日本は所謂暖冬、寒い寒いと嘆いたところで他国のようにマイナス10度20度をマークすることもなければマイナス5度を切る事もあまりなくなったような気がする。それにこの室内の温度管理。たかが会社の休憩室ごときに設定温度は25度。少し暖かすぎやしないか?と思う。最近はやれ節電だなんだと騒がれているのだから少しくらい貢献すればいいものをと自らが就職し何年も経つ会社に意見することはしない。なんだかんだ暖まっていられるのは嬉しいわけだし何より人間という生き物は、寒さに弱い。

「寒い、寒い寒い」

「煩い黙れ」

「石田あったかそーなの飲んでんねくそが」

「貴様の手にあるそれはなんだ」

休憩時間が被った同僚石田と休憩室で鉢合わせた。石田は相変わらず無糖の缶コーヒーを口にしながらぼーっと外を眺めていたので話し掛けることを躊躇ったが珍しく本人から声を掛けられたので買ったばかりのミルクティーを片手に今日の休憩時間は休憩室で過ごす事にした。石田に促されるまま自らの手に視線を移すとそこには先ほどのミルクティーが。但し寒い寒いと握りしめていたせいで先程までの温かさは感じられない。隣の芝生は青いというか、いやそれにも値しないかもしれないがとにかく今目の前で石田が飲んでいるコーヒーが羨ましくて仕方が無い。ジト目でコーヒーを睨み付けると隠すように石田がコーヒーを飲み干そうとしたので慌てて彼の腕に手を伸ばすと彼は細い目を大きく見開いた

「貴様、なんの真似だ」

「石田が飲んでるそれをくれたら泣いて喜びます」

「貴様が今手にしているそれを飲めばいいだろう!それに貴様無糖は飲めんと言っていた筈だったが?」

「わ、覚えてくれてたの?うれしーでもちょーだい」

確かにあたしは無糖というか甘くないものが嫌いだ。コーヒーだってミルクも砂糖も吐くくらい入れないと飲めないのがいつもの事なのだが、どうしてもどうしても、今なんだか目の前のコーヒーが飲みたい。石田が口をつけたそのコーヒーが飲みたいなって、変態かあたし。諦めずに手を伸ばし続けると石田はついに諦めたのか溜め息ひとつあたしにそれを差し出した。

「強欲な奴め」

「嬉しいお言葉!ありがとう石田!お礼にこのミルクティーあげる」

「いらん」

優しい優しい石田の好意に甘え手にとるそれは飲むには十分すぎるくらい、というかそれ以上に温くなっていた。温ければあたしは飲みやすいが石田は熱いのを飲むのが好きだった気がする。まあ他人の事なんていちいち覚えていられないと薄情にもそのコーヒーを口にすると、口一杯に苦味が広がった。無糖のコーヒーを飲むのは小さな頃一度挑戦したきり、久しぶりの苦味に思わず顔を歪めるとまたひとつ、大きな溜め息が聞こえてきたので顔をあげると石田が小さく首を横に振った

「無理をするな愚か者」

「だって美味しそうだったのよこれ。まあ不味かったけど」

もう要らないという意味を込めて石田に飲みきらなかった缶を差し出すと、それを受け取った彼は一気にそれを飲み干してしまった。よく考えたら間接ちゅーしてるよな、なんてどうでもいいことを考えながらふと彼から視線を反らすと休憩時間が残り5分とない事に気付いた。しまった本当にここにいるだけで休憩を終えてしまう。慌てて手をつけていないミルクティーを手に休憩室を出ようと踵を返すと、ぱっと手を掴まれてしまった

「どしたの、あたしもう行かなきゃ。化粧どろっどろだし」

「…名前」

「なに?突然畏まって」

振り向くといつになく真剣な表情をした石田がいたので思わず構えてしまった。いや、大体石田は真剣というか眉間にシワを寄せてはいるのだけれど、そんな表情ではなくて、なんだか切羽詰まったようなそんな表情。貴様呼ばわりばかりされていたものだから名前を呼ばれただけで思わずどきりとしてしまった自分なくなれ。

「いや、いい」

そして離される手。いやいや意味わかんないです。気になり出したら止まらない。まるでかっぱえび〇んのような性格のあたしは引かれるととてもとても知りたくなってしまうので、今度はあたしが彼の腕を思いきり掴んだ。石田はそれこそ目玉飛び出すんじゃないかと思うくらい目を見開きながらあたしに視線を向けた

「いい、じゃないでしょーくそやろう。どうしたんだい石田青年。優しい名前様が話を聞いてやろう」

「…後悔するぞ」

「は?なんで後悔?てかあたし休憩終わるから早く」

して、と声を上げたつもりだった。しかしあたしの声が喉を伝って外に出ることはなく再び肺へと帰っていった。状況が把握できない。まるでゆっくりと時間が進んで、ついに止まったみたいだ。これが現実であればあたしは今、石田にキスされている。唇から伝わるコーヒー独特の苦味がこれが現実だと教えてくれる。ああ、どうしてしまったんだろう石田。何かいやなことでもあったんだろうか石田。それでもそんな問いをする暇もなく、ばっとあたしから唇を離した石田はあたしから体を離し背を向けた

「さらばだ」

唐突に、突き付けるように放たれた言葉を素直に受け入れる術があたしにはない。だから何を聞くことも無く、ドアから出ていく石田をただ見送る事くらいしか、あたしには出来なかった

後日、石田は所謂政略結婚というものの為に会社を辞めたらしい事を同僚から聞かされた。今となってはもう、何故彼があんな事をしたのか問う事も出来ない。

「苦い」

だからせめて、あの味を忘れないように、あたしは毎日美味しくもない無糖の缶コーヒーを飲み続ける