short | ナノ

 

私の夫が大将を務める軍が最近、大きな戦に勝利した。これで天下は夫のもの。夫は約束通り日ノ本が太平の世になるよう日々国中を駆け回っているのだが、夫はちっとも嬉しそうな顔を浮かべない。あれだけ夢見た太平の世が、直ぐ目の前にあるというのに私の夫、徳川家康が心底嬉しそうに笑う姿を、あの合戦の前に見て以来一度も確認していない。夫は先日の合戦で友を失った。とてもとても気に掛けられていた、大切な友をその手に掛けた

「家康様」

「名前か、どうした?元気が無いな」

本当は自分の方がもっと辛くて苦しくてどうにかなってしまいそうなくせに、無理に笑おうと頬の筋肉を動かす夫の姿は痛々しい。どうしてそんな風に笑うのだろうか。周りはなんとも言わないのだろうか。彼の気配りが心根を刺激してちくりと傷んだ為に少しだけ目を細めると観察力の高い家康様は直ぐに気付かれたらしい。今度は悲しげに微笑んだ

「家康様、少し、お休みください。今の貴方様はあまりにも」

憐れだ

私も見知った夫の友人は酷く崇高で表情数の多くないお方だった事と記憶している。線の細いそのお方はいつも何かに苛立ってはいたものの自分の主君を何よりも大切に思う、真っ直ぐで心の綺麗なお人だった。と、私は勝手に思っている。無論、その考えは夫が豊臣から離脱しその方と対立しても尚、変わる事は無かった。彼は真っ直ぐ過ぎたのだろうか。夫でもどうにもならない程に、恐らくはこのような結果を招く程に。合戦が終わり帰ってきた夫に大きな傷は無かった。致命傷になる傷を負うやも知れぬと心配こそしたものの、合戦では大勝。兵の数も西の半数以下の犠牲で終わったと言うことは既に忍の方が調べている。結果だけを見れば夫の天下。それでも帰ってきた夫の一言目は、「ワシでは駄目だった」だった。夫は後悔している。一番守らなければいけない絆を絶った事を。その絆を自ら絶った事を

「ワシは民のために戦った」

「その通りに御座います」

「だがワシは、あいつのために戦えなかった」

縁側に腰を下ろし屋敷の景色を眺める夫は本当に大きくなった。私がここに嫁いだ頃の家康様は忠勝様がいなければまともに指揮も取れないようなおひとだったのにいつの間にか、立派な男に育ったのだ。だけれどその分、背負うものも大きくなった。責任という枷が夫を苦しめるようになった。夫は欲張りではいられなくなったのだ。友と太平、どちらも守ると大声で叫べるほど強くはないと限界を知った。だから夫は選んだ。皆が幸せになれる世を。それは簡単な選択でも無かったし簡単に成し遂げられる事でもなかった。それを夫はやってのけたのだ。だからもう、そのような悲しい顔で笑うことはしなくてもいいのだ

「家康様は、輪廻をご存じですか?」

「輪廻?輪廻転生の事か」

「左様に御座います。人の定めは廻るもの。貴方様の言う絆で結ばれた貴方様と石田様はきっと、これよりずっと先の太平の世でまた会えますでしょう。ですから心配などされず、今はごゆるりとお休み下さいませ」

隣にゆっくりと腰を下ろし床に置かれた夫の手に自らの手を重ねると、夫の熱が伝わってくる。夫の手は温かく、手首に流れる血の管は小さく脈打っている。死した者からは決して得られない人としての温度。夫は少し友人を嘆きすぎた。友の存在を忘れ去る事をしてはいけないが夫と同じように温かい熱を持った民を、夫は守っていかなければいけないのだ。この熱を守り続けなければいけないのだ。少しだけ、夫の手を握り締める自らの手の平に力を込めると夫は、嬉しそうに笑った。あの日以来初めて見る、笑顔だ

「ああ、そうだな。三成にはまた会えるだろう。だがその時は名前、お前も一緒だ」

握った手を引かれ倒れ込むようにして夫の胸の中に埋もれる。夫の胸板は広く、手よりもずっと温かかった。

どうやら夫は私の嫉妬に気付たらしい