short | ナノ

 

ホラー要素あり

幽霊を信じた覚えは無い。科学で証明されていない不確かな存在に怯えるなんて事はしたことがない。ただ最近疲れが見えるせいで金縛りにあうことが多いのだ。大学に入って少し経った頃からであろうか。耳元でボオオオンと鈍い鐘の音のようなものが終わりなく鳴り響いてあたしの聴覚から世界を遠ざけ、まぶたが開かなくなるんだ。そうしてそれが眠りではなく金縛りだと気付く頃には呼吸するのが難しくなって死ぬのではないかと気をおかしくさせる。あたしの場合は全身金縛りだから声もあげられなければ呼吸さえ辛くなる。そのあたしが出来るのは頭の中で考えること。しかしながら大きな音と息苦しさのせいで思考さえも止まってしまいそうになる。だからその前にあたしはいつも

全身全霊を込めて目を開けるんだ

「…っは、は…」

時計を見れば時刻は午前の3時半。最後に時計を確認したのが12時過ぎ。大学に提出するレポートに時間が掛かってしまい寝不足だったあたしはやっと睡眠が取れるとベッドに入ったのが恐らくそれから30分近く経ってから。眠ろうか眠らまいか、そうどうでもいい事を考えていたら段々眠くなってきたんだ。だからそのまま意識を飛ばし深い眠りにつく、筈だったのだが。知らず知らずに2時間以上も金縛りと闘っていたのかと思うと逆に気が滅入る。それに一人暮らしのあたしは無論部屋にひとりなわけで。あの鈍い音や息苦しさのあとに訪れる静寂は間違いなく恐怖対象。だから怖くなって、小さなスペースしかないベランダに飛び出す

「こんばんは、今日もいらっしゃるんですね?」

そしてベランダに出ると、いつも隣のベランダには月を見上げる隣人さんがいる。名前は確か、石田さん。あたしと同じ時期にこのアパートに引っ越してきたらしいこのひとも大学生なんだという事を知ったのもここでの会話のおかげ。あたしが金縛りにあって苦しさを紛らせたくて、外に出ると彼はいつもベランダにいた。雨でも降らない限りは夜中にも関わらずぼうっと空を眺めているのだが未だその理由は聞いた事がない。それを干渉する仲ではないのだから、聞かないのが当然と言えば当然なのだけれど。まるで何かを待っているかのように、彼はそこにいる。

「寒くないのか」

「え?ああ、大丈夫です。石田さんこそ薄着なんじゃないですか?」

「私は問題ない。それより気が済んだのなら早く戻れ。大方、また金縛りにでもあったんだろう」

「ふふ、でも石田さんとはここでしかお話出来ませんから。今度は、一緒にお食事に行きましょうね」

今日の石田さんはなんだか変だ。いつもはぶっきらぼうに返事をするだけなのに、少しだけ言葉が多い。そういえば石田さんを昼間に見掛けた事は不思議な事に一度も無かった。いったいどこで何をしているのか。大学生なのだから大学に通っているのは間違いないのだけれど、もしかしたら夜間なのかもしれないと言及は避けている。勝手に妄想しては相手に失礼だ。それに時間が合わないだけで外に出ている可能性だってある。日本人は隣人関係が疎遠になりつつあるわけだからそうであってもなんら不思議ではない。なのにあたしの心は何かをあたしに伝えようとするんだ。彼と話す度に、いつも。左胸が苦しいくらい高鳴って、彼と話がしたいのに何故か避けてしまいたくなる。これはきっと恋で、あたしの世界を彩っているのはきっと石田さん。夜中にしか会えない、隣人。

「ふん、…苗字。」

「はい?」

「…いや、なんでもない。早く戻れ」

「?変な石田さん。それじゃあまた。次はきっと昼間にお会いしましょうね」

石田さんに少しだけ頭を下げて部屋に戻ると、何か忘れているような。そんな気分になった。しかし思い出すことも叶わず今度こそ眠ろうかとベッドに足を入れた時だった。ああそうだとあたしはベッド横にある机の下から取り出した少し大きめの箱を抱えて再びベランダへと足をやった。石田さんは傾き始めた月を未だに眺めている。あたしの二回目の登場に驚いたのか、少しだけ、その綺麗な瞳が揺れたのが分かった

「石田さん!これ。痩せ我慢しないでつけて下さいね」

「…なんだこれは」

身を乗り出すように隣のベランダにいる彼に箱を伸ばすと少しばかりその箱を見つめた後、それを手に取ってくれた。そうしてそれからもあたしではなくストライプ柄の紙に包装された箱を眺めたまま石田さんはぼそりと呟くように言葉を紡いだ

「これは、そうですね。後で部屋に戻って確認してください!それじゃあ、今度こそおやすみなさい石田さん」

「ああ、早く床につけ。…苗字。すまない」

「変な石田さん」

それを最後にあたしは今度こそ自室に戻り、ベッドに体を寝かせて目を瞑った。段々まぶたが重くなってきて意識が朦朧としてきて、考える事が面倒くさくなってくる。今日の講義は午後のみなのをいい事に、少しばかりゆっくり眠ろうと眠りについた。


最近金縛りにあうことが多い。耳元でボオオオンと鈍い鐘の音のようなものが聞こえてきて、目を開くことも叶わず息苦しくなって、意識だけがはっきりしてくる。おかしい、完全に眠って、寝起きに金縛りにあった事は今まで一度もなかった筈なのに。まるで首を絞められているかのような苦しさから逃れたいのに体が言うことを聞いてくれない。ふと、頭の中を石田さんが余儀って、強く彼の姿を思い描いた。

石田さん石田さん石田さん石田さん石田さん石田さん。助けて、石田さん


「苗字」


突然、彼の冷たい、それでいてあたしの心を刺して抜けない声が鐘のような騒音を退けてあたしの耳をついたかと思えば、途端今まであたしを苦しめていた音や苦しさから解放された。代わりに一瞬だけ唇に柔らかいものが触れたような気がした。ゆっくりと開き始めた視界には淡い紫色が酷く眩しかった。部屋にいる筈もないのに、石田さんはあたしのあげたマフラーをつけてくれたんだなという変な安心感の下、今度こそ本当の眠りについた



2日後、隣に知らない女の人が引っ越してきた。ゴミ捨て場に何やら捨てようとしていた大家さんに話を聞いたらあたしの隣の部屋はもう2年、ひとが住んでいなかったらしい。それでやっと先日新しい入居者が決まったので部屋の掃除をしようと部屋に入ったら、まるで開けられたばかりの箱が床の上に置いてあったと大家は気味悪げに語った。大家の手には、ストライプ柄の包装紙と箱があったのでそれを拝借すると、中にはなにも入っていなかった。もしかして、と思った途端いつも彼を見ていた時と同じような胸の高鳴りがあたしを襲った。口に出したいのに出来ればやめたい。

そうか。この感情の名前は恋じゃ無かったんだ

それ以降、あたしが金縛りにあうことは二度と無かった