My lover.


「声が出なくなった?」

「あたしを庇って、悪魔の変な呪い受けちゃって…」

聞き返した初代に、紅はしょんぼりと頷いた。床に視線を落とした彼女は相当落ち込んでいるのか、深々と溜息する。

「…どうしたらいいと思う?」

潤む瞳で見上げられて、初代は苦笑を返した。

「そのうち元に戻るだろ」

あっけらかんと言ってのけ、

「…本人は気にして無いみたいだしな」

そう小声で付け足すのには理由があった。というのも、目の前で助けを求める紅の腰に背後から腕を回し、しっかりと抱きしめている若が彼女の頭に顎を乗せてこちらを見ているからで。

「まあ、不便だろうが筆談で話せば問題ないだろ」

メモ帳とペンを紅に持たせると、初代はさっさと出掛けてしまった。立ち尽くす紅からペンを取り上げた若が、後ろから覗き込むような体勢のままメモ帳に何かを書き始める。

『お前がそんなに悩むことない』

「…でも、」

話すために振り返るが、その唇は若によって塞がれた。突然受けたキスに頬が熱くなる。いつもならば恥ずかしくて振り払うところだけれど、今日は負い目から跳ね除ける事が出来ず受け入れてしまう。軽く触れるだけのそれは落ち込む紅を労わるように優しかった。憂いを感じさせない微笑みを向ける若に漸く紅もぎこちなく笑みを返す。

「…何か困ったことあったら書いて」

頷く若を心配そうに見つめながら、紅はそっとメモ帳を差し出すのだった。

**********

彼女が責任を感じる必要は無い、と思う。声が出なくなったのは己の不注意で、確かに不便な思いをするかもしれないが深く思いつめる事でもない。

(…寧ろ得したな)

責任感からか傍を離れようとしない紅に若の口元は緩んだ。ちらちらと様子を窺ってくる彼女の頭の中は今、自分の事でいっぱいなんだろう。それが嬉しくてたまらない。胸の奥から湧き上がるような愛おしさを感じて、若はソファーで寝そべったまま手招きをした。

「どうしたの?」

駆け寄ってくる彼女は用事でもあると思ったのだろう。律儀にもテーブルに放られていたメモ帳とペンを掴んだ。すかさず脇腹へ腕を回した若は、腰を絡め取ると強い力で引き寄せる。

「っ!?」

驚いた彼女が息を飲んでいる間に腕の中へ閉じ込めた。その拍子に手から滑り落ちたペンとメモ帳が床へ落ちる。仰向けに寝転がる若の上に倒れ込んだ紅は、胸の上に手を置いて体を起こそうとするが抱き締める事でそれを阻止した。

「もう…!なんなの…!?」

体は密着したまま顔だけを上向かせた彼女の頬は赤く染まっていて、心なしか伝わる体温も熱い。つい、からかいたくなって口を開いたものの、声が出ない事を思い出し苦笑した。

「………」

と、その様子を見つめていた紅の眉尻が下がる。僅かに唇を引き結んで、悲しみを押し隠すように頬を若の胸へ預けた。また、自分を責めているのだろうか。それとも甘えているのか、諦めて抵抗をやめたのか。理由を探ろうと首を傾げた若の耳に微かな声が届く。

「…声、聞きたい…」

ほろり。零れ落ちた本音を恥ずかしく思ったのか、紅は顔を埋めて表情を隠してしまう。けれど色付いた耳朶が彼女の心情を表していた。

「………」

思わぬ言葉を受けて、甘く緩やかに心臓を締め付けられる。自分にとって些細であった筈の事が、彼女の言葉で大きなものに変わってしまった。いつもなら何度だって好きだと囁くのに。名前を呼んで、可愛いと伝えるのに。もどかしい思いに両手で紅の頬を包み顔を上げさせた。目元も頬も赤みが差し大きな瞳は膜を張って潤んでいる。熱を含んだ視線が絡んで、白い手が縋るように服を握った。親指の腹で頬を優しく撫でながら、引き寄せた唇で額に触れる。こめかみへ、鼻頭へ、甘い果実のような唇へ。

「…ん」

淡く食む口付けを交わし抱きしめる。柔らかな髪を梳きながら、愛しい気持ちが伝われば良いと思った。言葉にしなくても、伝わる熱に想いを込めて。

「ダンテ」

「…?…っ!」

不意に細腕が首に回され、心地好い温もりに覆われる。お返しとばかりに抱きしめられて、耳元に吐息が触れた。

「…声出るようになったらさ、いっぱい名前呼んでね」

照れ臭いのか腕の力を緩めない彼女の表情は見えないものの、小さく笑うのが伝わってくる。その一挙一動が可愛くて、嬉しくて、愛おしくて。紅を抱きかかえたまま起き上がった若は、上機嫌で床に落ちたペンとメモ帳を拾うと短く書き留めた。

『その時は覚悟しとけよ』

嫌ってくらい名前を呼んでやるよ、と。紅の眼前にそれを晒せば、僅かに見開かれた瞳は直ぐに細められる。花が綻ぶような満面の笑みにつられて、若も歯を見せて笑った。

今はまだ、叶わないから。
名を呼ぶ代わりに見つめ合おう。
言葉の代わりに口付けを交わそう。
互いの存在を確かめるように、触れ合う事で心の隙間も埋めていった。

ーーーただただ、"その瞬間"を待ち焦がれながら。


End.

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