コラボ小説 | ナノ
 雪原にて

「ダンテさん…」


思わずその名を口にしてしまったのは、一瞬彼と見間違えたから。

兎にも角にも麓を目指すつもりでケルベロスの鼻を頼りに傾斜を降り始めてからどれほど経っただろう。


『主よ』


臨戦態勢を兼ね武器姿でリアラの腰に収まるケルベロスが堅い声で主人を呼び止めた。彼に僅か遅れて察したリアラも足を止める。そっと腰へ指を掛け、彼女は前方を睨み付けた。誰か、何かがこちらへ近付いてくる気配を二人は感じ取っていた。胸を占める哀しい絶望が冷ややかな闘志で凍てついていく。


『この匂いは…?』


あちらもリアラたちに気付いているらしい。吹雪に霞んでよく見えないが、リアラより長身の影はまっすぐ二人の元へ向かって来る。こいつが件の雪山に出る悪魔だろうか。いつでも攻撃を仕掛けられるよう神経を研ぎ澄ますリアラの手中で、ケルベロスは困惑気味だった。


「ケルベロス、来るわ」


距離にしておよそ数メートル。ケルベロスの攻撃が届かないギリギリのところで影は立ち止まる。こちらから踏み込もうか。リアラが考えを巡らせていると、不意に雪の乱舞が止んだ。


「ダンテさん…」


一瞬、リアラは彼が迎えに来てくれたのかと思ってしまった。現れたのは、少なくとも見た目は人間の青年だった。リアラの知るダンテよりずっと若い。もしかしたらリアラより。だけどダンテにとてもよく似ていた。日を弾いて雪より輝く白銀の髪。同じ色の睫毛に縁取られた、スーパーブルーより深く透き通る蒼い瞳。顔立ちや纏う雰囲気、あげればきりがないが、何より理屈ではない繋がりのようなものを感じた。戦意などすっかり失せてしまって、リアラはただ、青年を見つめるだけだった。彼の向こうに伺える、愛しい人の面影を。


(ダンテ≠ウん…?)


リアラたちとはまた違う理由で、眼前の青年も戸惑っていた。ネロの悪魔の腕ほど敏感ではないが、リコも悪魔の血を引く者として同族を感知する感覚を備えている。殆ど勘のような曖昧なものに従って雪山を登り小一時間。見つけたのはリコより少し年上の綺麗な女の子だった。しかも彼女の開口一番の台詞は「ダンテさん」。たった一言に込められた想いをその表情から悟り、リコは成る程異世界からの客人は彼女に間違いないと直感した。リコを見てそう呼んだということはあのダンテ≠ナ間違いないのだろうが、何せ彼の父親は母親に身も心も魂も捧げ尽くしてしまっていて、こんなうら若いお嬢さんを惑わせる余裕などとても持っていない。ちなみに同じ顔の伯父も同様。ならば彼女の言うダンテ≠ヘ彼女だけのダンテ≠ナはなかろうか。戦意を解いてくれたのは助かるが果たして何と声をかけるべきか。無言も不味いよなと口を開くと同時、少女の瞳から涙が一粒零れ落ちた。


「え…あれ…?」


完全に無意識らしい。張り詰めていた糸が切れたのか、止まらない涙を必死で拭う彼女は恥ずかしそうに顔を覆って、ついに身を屈めて泣き出した。リコは泣いている女の子が苦手だった。女の子はどんな表情より笑顔が一番可愛いと信じていたし、あたたかくてやわらかい彼女らが弱っている姿には胸が苦しくなる。だから放っておけず、今もそうして声をかけようと足を踏み出した。


『寄るな』


リコを遮ったのは、低い男の声だった。思わず歩みを止めるリコとリアラの間に、武具から姿を転じたケルベロスが割り込んだ。大きなドーベルマンに似た体躯で少女を守るように立ち塞がる。


『貴様、何者だ。気配からしてスパーダの血族のようだが』


よく知っているその姿。しかし向けられたことのない瞳、言葉遣い。なのに忠節を尽くすのは変わらないのか。家で妹のお守りとドッペルゲンガーの見張りを頼んできた魔犬のことをぼんやり想いながら、リコは淡く微笑んでみせた。


「そうだよ。僕はスパーダの血を引く者、ダンテの息子」


息子、その言葉に驚いたリアラが顔を上げてリコを見た。けれど目が合った瞬間泣き顔の自分を思い出して伏せてしまう。


『息子…だと』

「リコっていうんだ」


俄かに信じがたい話だったが、泣いてもやもやしたものを出したおかげか頭が冴えてきた。リアラは何時間か前のケルベロスの言葉を思い出していた。此処は、わたしたちの世界じゃない。だとするとこの世界にはこの世界のダンテが居て、全く違う誰かと愛し合っているのかもしれない。愛の結晶を生み出していてもなんらおかしくはない、そんな気がした。思考の海へ嵌りかけたリアラの目の前にハンカチが差し出された。はっとなって顔を上げるとすぐ傍にリコが跪いていた。


「どうぞ」

「で、でも…汚れちゃいますし…」

「気にしないで」


遠慮するリアラの頬にハンカチを当てるリコ。彼はそっと彼女の手を取った。


「僕でよければ、話を聞かせてもらえないかな」


ぽかん、としたままのリアラへ向けられたリコの表情は、どんな女の子も見惚れるような笑顔だった。


「美しい人、貴女の笑顔を取り戻すお手伝いをさせて欲しい」


息子といっても性格は全然違うんだな。リアラはそう思っていた。取り敢えず涙は引っ込んだ。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

リアラがレディの依頼を受けて向かったのは、彼女の知らない、でも世間の若者たちにはそれなりに有名なスキー場を設けた雪山だった。悪魔が出没する、人が襲われた、捕獲あるいは退治して欲しい、概要は以上だ。スキー場のオーナー兼地主という壮年男性に挨拶と話を伺い、リアラは早速ゲレンデがある場所を中心に探索を開始した。その時は勿論整備された程よい深さの雪山だったのに、暗い光に包まれたと思った次の瞬間猛吹雪の見知らぬ土地に放り出されていたのだった。


「その暗い光っていうのがたぶん召喚の兆しね」


苺がプリントされたお気に入りのマグに並々と注いだミルクティーを揺らしながら真面目に頷くリサ。その正面に座り、うさぎプリントのマグを両手で抱えていたリアラは、話し終えてほっと一息つく。あれからリコにエスコートされて雪山を降り、不思議な空間を抜けて案内されたのは彼の家だった。そして出迎えてくれたリコの妹が用意していた風呂で温まり、借りた部屋着に着替えたリアラは濃いミルクティーに漸く人心地ついた気分でぽつりぽつりと分かる限りの説明を始めたのだった。


「しかし捕獲っていうのも変な話だね」


悪魔なんて捕まえてどうするっていうんだろう。リサが腰掛けるソファの肘置きへ身体を預けるリコが何と無しに呟いた。それはリアラも気になっていたが今はわからないことだ。それどころではない、と言った方が正しい。リアラはそっと部屋の奥にある暖炉のほうを伺った。ぱちぱちと薪が爆ぜる音を奏で、燃えるあたたかな炎の前には二頭の犬が寝そべっていた。人の身長より遥かに大きな黒い犬。事情を知らない者が一見すれば、その二匹は兄弟かと思うほどよく似ている。しかし実際は似ているなどという次元ではない。片方だけが付けている氷の首輪を除いて二頭は寸分違わず同一だった。両者の名は共にケルベロス。現世と魔界を繋ぐ罪の塔の番犬。無二の存在であるはずの彼らが並ぶ光景こそ、今起きてしまっているイレギュラーの証しだった。


「…召喚を失敗してしまったという魔女の方はどうなったんですか?」


愛する人と馴染んだ世界から引き離されてしまった悲しみはある。けれどリアラが一番気にかかるのは其処だった。未熟が起こす不幸は知っている。


「助け出されたそうだよ」

「今ママたちに叱られてるって」


冗談を交え朗らかに返しながら、優しい人だなと兄妹は思う。何の理由もなく巻き込まれたのは彼女なのに。良かった、心底安堵したとばかりに笑うリアラに二人もつられて微笑む。


「貴女の事はきっと元の世界へ帰すと約束します」


励ますように言ったリコの傍で、リサの表情がはっと強張っていった。まるで恐ろしいことを考えてしまったと言わんばかりにミルクティーの水面を見つめ、少女は意を決して口を開く。


「わたしじゃ駄目かな…」

「リサ?」


クローゼットから現れたときのリアラを思った。赤く泣きはらした目と、疲れ切った表情。寒くないと言いながら彼女は凍えていた。力になりたかった。その思いだけで訝しむ兄を振り仰ぐ。


「考えがあるの。わたしでもリアラを帰してあげられる」

「でも…」


いつになく強気な妹に押され、助けを求めるようなリコの眼差しがリアラへ向けられた。唐突な申し出に戸惑うばかりだったリアラは、その目を見た瞬間思ってしまった。


「帰りたい…」


あの人に逢いたい。リサには感じないのに、リコの瞳は切なくなるくらいダンテによく似ていて。思わず零してしまったリアラにリサは頷いて見せた。こう言われてはリコももう止められない。


「決まりね」


乾かしてもらっていた仕事着にもう一度着替えたリアラが通されたのは、訪問時と同じクローゼットがある部屋だった。改めて部屋を見渡すリアラの隣でリコが得心いったと頷く。


「ああ成る程。これを利用するんだね」

「うん。これだったらわたしでも違う世界同士を繋げられると思うから」


来た時は疲弊していたので感覚が鈍っていたが、精緻な彫刻の施されたクローゼットの前に立つと確かに強大な魔力を感じる。それも欲望のために一朝一夕で築かれた粗末なものではない。人知を遥かに超えた刻をかけて研ぎ澄まされた、シルクのように緻密な力には威厳すらあった。かつて古木が大地に根ざし自ら命を巡らせていた時のように、今も木目の流れに沿って美しく力が流れている。


「リアラ、帰りたい場所を思い浮かべて」

「後は導いてくれるよ」


ただただ圧倒されるリアラに兄と妹が振り返る。少女が我に帰ると二人はクローゼットの両側に立ってそれぞれ扉を開いてくれた。中に広がるのは無限の闇。恐怖は無かった。


「ありがとう、二人とも」


心から礼を述べ、再び武器姿で腰に下げたケルベロスを握ってリアラは扉の中へ踏み込んだ。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

ダンテに蹴り飛ばされたジュークボックスは不吉な異音を立てた後沈黙した。依頼へ出掛けたリアラからの連絡が途絶えて丸一日。来てもらったデビルハンターが行方不明になったという依頼人からの電話に矢の如き速さで現場へ向かったレディにあの子の帰りを待ってなさいと言われ大人しく事務所に居るものの、ダンテは荒れに荒れていた。こんなことは初めてだ。ダンテはリアラのハンターとしての強さを認めている。けれど彼女には真面目さ故の向こう見ずなところがあるのもまた事実。


「リアラ…」


応える声はないとわかっていても思わず零してしまう。今すぐあの笑顔が見たい。いや彼女のことだから申し訳なさそうにご迷惑をおかけしましたと言うんだろう。そうしたら、迷惑じゃなくて心配したんだと叱ってやるのに。兎に角無事でいて欲しかった。大切な人を、また失いたくない。冷静さを欠いている自覚はあったがダンテが堪らず事務所を飛び出そうとしたとき。


「なんだ…?」


フロアの奥に設えた黒檀の机から強い魔力を感じた。半ば予感めいたものを覚え、ダンテは机の引き出しを慎重に開く。古くとも上等な手応えと共に現れたのは、一丁の白い銃。銘はホワイトウルフ。本来ならばリアラの左脚に納まっているべき白狼は今ダンテの手元にあった。出掛ける前、何が起きるかわからない雪山に使えない武器を持っていくのはやめておけと忠告したダンテへリアラが預けていったのだった。光輝くような白さの銃器が引き出しの中無限に思える暗闇にぽつりと浮かんでいる。異様な光景だった。この引き出しの中はダンテが知る限り何の変哲も無い、木目も美しい棚のはずだったのだ。顔色を変えないダンテが銃身を取ると、闇が辺り一面に広がった。右手の中で白い狼がじんわりと熱を持つ。こちらだと背中を押された気がして、ダンテは闇の中を歩き始めた。

長い一日だった。ただ成り行きに身を任せていただけだったのにいろんな経験をした気がする。リアラは暗闇の中を真っ直ぐ走る。


『主よ、帰り道がわかるのか?』


はぐれるといけないからという理由で腰に納まるケルベロスが問うと、頭上でううん、と楽しそうに笑う声が帰って来た。


「わからない。でも、こっちよ」


息を弾ませ、胸の高鳴りを抱き締めて、少女は走る。ダンテさん、早く逢いたい。逢って話したいことが沢山あるの。違う世界へ行って貴方の子どもたちに出逢ったと言ったら、どんな顔をするだろう。思わず笑みが零れ、顔を上げると銀色の光が見えた。


「ダンテさん…!」

「…リアラ」


自分の姿さえ見失いそうな暗闇の中で、彼をはっきり見つけることができた。それが嬉しくて弾む声のリアラに応えたダンテは半ば茫然としていた。


「良かった。無事だったか…」

「だ、ダンテさん?!」


だから駆け寄ってきた少女を腕の中へ捕らえたのも、殆ど無意識だった。柔らかな温もりに深く息を吐き、無事を確かめるように何度も抱き締める。力の強さは娘を迎える父親のようで、母親を見つけた迷子のようで。最初は驚いたリアラもじっと大人しくダンテの腕に身を預けた。


「迷惑かけてごめんなさい…」


初めて残していたダンテの気持ちを想いリアラが反省の言葉を述べると、何故か頭上で吹き出す気配がした。


「ダンテさん?」

「いや…」


言うだろうと思ってたよ。あまりに予想通りのリアラにダンテは軽く身体を離して笑いかけた。


「んむ、」

「迷惑じゃなくて、心配したんだよ」


だからこれは罰な、彼は小さな鼻をふにっと摘みあげた。何か危険事に巻き込まれたのではないか。対処出来ず困っているのではないか。駆け付けて助けてやりたかった。こうして無事再会出来て、本当に良かった。ダンテがもう一度華奢な身体を強く抱きしめると、リアラもおずおずと赤いコートの背中へ腕を回した。ふわりと鼻先を掠めたダンテの匂いに帰って来られたと思った。


「ただいま、ダンテさん…」


この人の側が、自分の居場所だ。


「ああ。おかえり、リアラ」


水晶色の髪を撫で、かきわけた額にダンテは唇を落とす。辺りの暗闇が揺らいで、霧が晴れるように明るくなっていく。ああ、帰れる。


「え?!あれ??!」

「う、わぁ…」


しかし住み慣れた事務所に出ると思いきや、出迎えてくれたのはリアラが先刻別れたばかりの兄妹だった。