コラボ小説 | ナノ
 狭間を超えて

見渡す限り一面の雪景色。空は白く晴れているが吹き荒ぶ風に舞い上がる雪が礫の様に肌を撃ち、積もるものは腰まで纏わり付いて歩みを阻む。常人ならば目を開けていることさえ叶わない吹雪の中を一人進む人影があった。それは年若い女。全てを凍てつかせる極寒も、偉大なる父の加護を受ける彼女の前にはそよ風も同じ。コートを羽織ってはいるものの、ショートパンツからは白磁の肌も眩しい素足がすらりと伸びている。苦ではない。魔界の一角『凍土』を統べていた悪魔を父に持つリアラには、雪と寒さは盾であり加護。今この時彼女をさ迷わせていたのは肌を刺す冷気でもなければ体温を奪う風でもない。


「…ケルベロス」


リアラはそっと腰から下げていた三又の魔具へ手を掛けた。始めはリアラの恋人と契約を交わし、今はこうして力を貸してくれる忠実なる魔犬は、主人の呼び掛けに静かに応えた。心をそっと鎮めると頭の中に直接低い声が響いてくる。


『主よ、此処はやはり…』


若い主人を慮り微かに言葉を濁したケルベロスは、けれど彼女の望み通り真実を口にした。


『此処は我らの世界≠ナはないようだ』


ぎゅう、と武器姿のケルベロスを握る手に力が篭る。リアラは短くそう、と答えて再び歩き始めた。その足取りは気丈を保とうとしているが先程より頼りない。彼女を迷わせているのは氷ではない。彼女の足を鈍らせるのは寒さではない。


「ここは、どこ…?」


見渡す限り一面の雪景色。見覚えもないこの場所にどうやって来たのかさえリアラにはわからない。その不安と絶望が澱のように溜まっていって、彼女を心の中から蝕んでいた。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

闇に飲まれた館の室内を燭台の灯りだけが仄かに照らし出していた。いやに外の風が煩いと思えば、木枯らしに似た音は己の口から漏れていた。心臓もまるで早鐘のごとく鳴り続け、まったく言う事をきいてくれない。女は度胸よ。自分自身を叱咤激励して、少女は誰もいないホールの片隅から中央へと進み出た。少女の歳の頃は見目にして十代半ば。瑞々しいばかりの美貌を輝かせるのは、若さだけではない。罪深き魔性の能力を我がものとする魔女一族。少女はその一人だった。しかし彼女はまだ半人前である。魔女は魔界の住人と契約を交わして初めて一人前と認められる。本来ならば年長者の赦しを得て初めて挑むことを許される儀式に、少女は一人で挑もうとしていた。彼女は若く、未熟で、無謀だった。


「…さあ」


次いで少女の柔らかな唇から零れたのは地球上のどの言語にも属さぬ言葉だった。魔物を呼び寄せるための、力ある言葉。静寂さえ食われてしまいそうな暗闇の中で少女の髪がぶわりと蠢いた。小麦色の髪は蛇のように連なると獲物へ食らいつくが如く地を突き刺す。血よりも赤い光が、地下より噴き上げた。

ーーーやった!

心の中で少女は喝采を叫ぶ。


「えっ…?」


しかし闇より暗い光は少女の予想を超えてホール全体、館もろとも、年端もいかぬ少女も何もかも飲み込まんとするがごとく広がっていった。


「やだっ!…いや…いやあぁぁ…!」


絹を裂くような悲鳴が谺する。万年雪に囲われた洋館が、其処だけ世界から隔絶されてしまったように大きく揺れた。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

「スキー場の悪魔?」

「そうよ」


今しがた告げられたばかりの言葉をリアラが鸚鵡返しにすると、レディは赤と青の瞳を優雅に伏せて頷いた。妹並みに可愛がっている歳下の女の子が煎れてくれた紅茶を一口飲んで、彼女は先を話し始めた。


「でも確信はないの。ほら所謂雪男みたいなのが目撃されたらしくてね、それでお客が増えて万歳って感じだったらしいのよ。…最初は」


不穏な言葉尻にリアラは神妙な顔付きで姿勢を正す。背後で事務机に組んだ両足を乗せて寝ているダンテが身動く気配がした。


「まさか…人が襲われたの?」

「それも微妙なのよね…」


他人事ではないとばかりのリアラに対し、レディは苦笑いで頬杖を付く。毒気を抜かれ微妙?と首を傾げる少女の眼前でレディの表情が辣腕の女デビルハンターの鋭さへ変わる。


「被害者に会ってきたけど怪しいのよね…とはいえ報酬は良かったから依頼受けちゃったんだけど」


雪男を見つけて、出来れば捕獲してほしい。やむを得ないならば退治してほしい。それがスキー場経営者からの依頼だった。


「でもどうするの?雪山を隅々探索するの?」

「そんなことしたら私が雪女になっちゃうわよ」


レディは中々冗談とは言い難いジョークを飛ばすとリアラの背後へ視線をやった。つられて少女も振り向けば、ダンテは相変わらず椅子に腰を乗せて両腕を組み、顔を雑誌で覆った体勢だった。


「…俺は行かないぞ」


しかし二人分の無言の圧力に耐え兼ねて雑誌の向こうから不機嫌そうな声が返ってきた。レディの訪問からずっと寝たフリを決め込んでいたダンテはここにきて漸く観念したらしい。普段ならここでレディと一悶着あるのだが。


「わかりました。それならわたしが行きます」

「「え?」」


ダンテのみならずレディさえ予期せぬ第三者からの立候補が上がった。誰あろうそれは勿論リアラなのだが。


「私なら、雪山でも寒くないわ」

「そうね、それはそうなんだけどねリアラ…」

「怪我をした人がいるんでしょう?悪魔の仕業なら放ってはおけないわ」

「確かにそうなんだが。いや、だけどなリアラ…」

「これ以上犠牲者が出る前に、なんとかしないと」


生真面目と純粋無垢に少女の身体を持たせ細やかに彩色を施したようなリアラの意志は固かった。

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

Ring! Ring!Ring! Ring!

悪魔の襲撃も無い静かな夜。寝静まる一家全員を眠りから呼び覚ましたのは、けたたましい電話の呼鈴だった。自分のベッドの中であまり爽快とはいえない目覚めを迎えたリコは、静かに寝返りをうって隣のベッドを伺う。彼と同じ髪と瞳の妹もぼんやり兄を見返していた。十回はコールを繰り返した筈の電話は未だ通じることを求めて鳴り続けている。半分寝ぼけながら意味もなく見つめ合う兄妹の背後、廊下側を軽い足音がかけていく。


「ママ…」

「そうだね」


彼らの母は急ぎ足でまっすぐ階下へ降りていく。リコとリサに用事がある場合、皆大抵が携帯電話の方へかけてくるので家の電話の方へ連絡を寄越すのは両親どちらかの知人が多いが、こんな夜更けにどんな用向きだろう。長いコールからどうも火急の知らせであるのは間違いないが。そんな事を考えながらもリコはうとうとと睡魔の波に流されて、再び眠りの中へ沈んでいった。何かあれば起こしに来るだろう、今夜は父さんも居るし。


「お前たち、起きろ」


その日の夜明け、起床を促したのは珍しくリコとリサの父だった。ダンテはいつも家族の中で一番最後に、母からキスを貰わなければ起きてこない。寝惚けた父に「キスしてくれなきゃ起きない」という寝言を聞かされたリコは知っている。遠慮なく鉛玉のキスをくれてやったが。あの時鉛の雨を華麗に避けてなにしやがるとがなっていた父は今、これまた珍しく神妙な面持ちで緋紗が待っている階下のリビングを示した。


「家族会議だ」


父は世界最強の悪魔狩人、母は二千年を生きる魔女。そんな家族に供される議題は勿論、世間一般的な家族会議とは比べ物にならない程度に非常識極まりない件ばかり。


「異界の扉が開いてしまったようです」


緋紗は朝の挨拶の後こう切り出した。世界≠ニはまるで珠のように他から隔絶されたもの。そして世界≠ニ世界≠ヘ数珠のように決して混じり合わないながらも離れることなく隣接しているもの。パラレルワールド。選択肢AとBそれぞれの先にあるもの。異界の扉が開いたとは、すなわちこの世界と何処かの世界とが繋がってしまったということだった。原因は未熟な魔女の召喚失敗だと緋紗は続けた。


「私は暫く家を離れます」


ヨーロッパへ行くという。アンブラの魔女として事態の収束を図るために。


「俺も付いて行く」


細い肩を抱きながらダンテも言った。道中危険が無いとは限らないし、異世界から何が来たかもわからないからと。リコとリサに異論は無かった。会議というより連絡会の体でその後細々とした遣り取りを交わし、もう既に纏めてあった荷物を持って両親は散々子供達の心配をしながら家を発った。こういうところは世間一般的な家族となんら変わらないんだろうなと思いながら、リコも自室へ翻って武器を漁る。雪山なら轟音を伴う銃器は控えた方が良いかもしれない。雪崩の危険がある。


「リコも出掛けるの?」


振り返ると部屋の入り口に妹が立っていた。リサは不安そうな表情でリコの顔を伺っている。リコは一瞬返答に困ったが、彼女の影が大きく揺らいだのを見て意を決した。


「うん。母さんが言ってた雪山へ行ってみる」


ダンテと緋紗は一先ず仲間の魔女と連絡を取り合う為にヨーロッパへ向かった。その間儀式が行われた場が放置されているはずは無いが、それでも何か力になれるかもしれない。少なくともリコは家でじっとしてなどいられなかった。


「お前は家に残って父さんたちからの連絡を待ってて。…頼むぞ」


終わりの台詞は妹に向けたものではなかった。リコの言葉に呼応するが如く、リサの足元に落ちた影が一層強く揺れて形を成した。出現したその姿は兄妹が知らない若き日の父そのもの。しかし彼は彼だけの感情と意志を備え、騎士然と最愛の少女の傍らへ侍る。


「オニキス、リサを護ってね」


ただし、妙な事をしでかしたら殺す。妹を案ずる優しい兄の顔をした青年の言葉の裏側を知ってか知らずか、父が残したドッペルゲンガーは力強く頷いたのだった。


「行ってらっしゃい、気を付けてね」


件の魔女が召喚の儀式を行った館は大陸を越えた先、本来なら飛行機を幾つか乗り継がなければ行けない山にある。しかしリコが先ず向かったのはバス停でも空港でもなく、自宅の物置として使っている部屋だった。綺麗好きな母のおかげで埃ひとつない室内の一番奥に鎮座する古めかしい木製のクローゼット。これには我が家の魔女によってある仕掛けが施されていた。


「行ってきます」


リコは衣装箪笥の両開きドアに付いた真鍮の取っ手に指を掛け、静かに白銀の瞼を降ろした。同様に心を鎮め地図で確かめた霊峰を思い描く。軽く両手を引けば、ぎぃ、と蝶番が軋む音を奏でる。中にはただ、暗闇が広がっていた。これこそ緋紗が施した稀代の魔法。一言にすればワープホールのようなものだ。魔力を持たない者が扉を開いても何の変哲も無いクローゼットだが、魔力を持つ者が開けば強く念じた場所へと繋げてくれる。例え行ったことのない場所であっても。ダンテと緋紗が発ったのもこの場所からだ。リコは躊躇無く一歩を踏み出した。闇に取り込まれるのは一瞬。気付けばリコは小さな個室の中に居た。正面の壁はその半分程の大きさの窓があり、そこから見える景色は絶えず流れ、足元から不規則な振動が伝わってくる。


「列車か…」


素早く状況を判断して、リコは窓へ顔を近付けてみた。晴れ渡る空を護るように聳える霊峰が見えた。クローゼットが繋いでくれるのは目的地に最も近いドアだからこういうこともままある。でも此処からならば直ぐだ。少々建て付けの悪い窓を押し上げて、青年は走行中の列車から身を躍らせた。