大人ごっこ
少し気になる人がいる。
見た感じ年上。とにかく大人っぽい人だ。
ただ俺が知っているのは、少しのことだけ。外見的特徴と、名前くらい。
すらっとしている身体であったり、左手の薬指に指輪がないことだったり。それくらいなのだ。


ゆったりとしたジャズが流れる店内。時間も時間だからか、客はまばらだ。
特にオーダーもないため、グラス磨きに専念する。
自分の顔がクリアに映るくらい綺麗に磨き上げろと、そう指導された新人の頃を思い出していた。


今日あたり、来そうだ。ちらりと扉を横目で見た。

ここはmirage(ミラージュ)
英語で蜃気楼を指す、その語源はラテン語だという。
路地裏の地下にひっそりと扉を隠した、知る人ぞ知るバー。俺はそこに勤めるアルバイトのバーテンダーだ。


出入り口となっている店の扉が、来客を知らせる音を鳴らした。ちりんという小さな音に誘われて顔を上げる。


知らないことの方が多い、気になる人の、しかしそれでもわかりきっていることも、あるにはあるのだ。


「やぁ、こんばんは」


低く甘い声。柚木、と俺が彼に名乗ったのは、どれくらい前だったか。
センスの良いスーツを着こなす、男。そう、気になる相手というのは同性の男なのだ。
もともと偏見はなかったのだが、まさか自分がそうなるとは夢にも思わなかった。
今でも時々、どうしてだろうと考えてしまう。自分にはない大人の余裕だったりとか経験豊富そうなところだったりとか、思いつく点は多々あるが。


「……こんばんは、佐々野様」


俺に向けられた挨拶に無難な返しをする。
佐々野さん。彼はひとりで来店しては、カウンター席で酒を軽く3、4杯飲んで帰る。そんな客だ。バーテンダーにも気さくに話しかける、その性格に好感をもった。初対面では驚いたものの、もう何度となく彼のペースに乗せられて、いつしか俺自身も会話を楽しむようになっていた。


「佐々野様、あの…」


そんな彼が、今日は酒を煽るように飲んでいる。注文されればそれに応じるのが俺の仕事だが、さすがにこのままでは――…


もうやめるよう勧めると、彼は不服そうに手元のグラスを引き寄せた。当分俺の進言は聞いてもらえそうにない。
困り果てた俺は、気長に待とうとグラスを磨く作業を再開した。視線をグラスに注いだまま、耳だけは佐々野さんの声を拾えるよう集中させる。


「そんなことより、君も一杯どうだい?奢るよ」
「…いえ、仕事中、ですので…」
「つれないねぇ…」


からん、と。佐々野さんが持ち上げたグラスの氷が音をたてた。
いつになく絡まれている。彼はもともと会話上手で、引き際を心得ている、のに。それを知っているからこそ、今日の彼はいつもとは違う気がして。
なんとなく嫌な予感がした、そのときだった。


「…今日は君だけでも、つれてくれたらな、」


独り言のような、ため息まじりの小さな一言を聞いた。その思いつめた声音に、俺はグラスと布巾を置く。
顔を上げれば、自然とこちらを見上げるその瞳と目があう。酒に溺れかけた瞳。すがられている、気がした。


「…振られてしまったんだ」


人は恋をする。
俺がこの人を気になっているように、彼だって誰かに恋をするのだ。当たり前のことだと理解していても、何も言えないまま、彼を見つめることしかできなかった。


「僕ももういい大人なのにね。これからどうしたら…なんて。だめだな、どうにも自信がなくなってしまって…」


ぽつりぽつり、こぼされる言葉が、俺の心を覆っていく。
それからひとしきり黙ったのち、佐々野さんは俺を呼んだ。


「柚木くん」
「…はい。」
「今日はあと一杯で終わりにするから…なにか…元気がでるような、そんなカクテルをもらえないかな」


バーテンダーとしてこのような経験がないわけではない。私をイメージしたカクテルを作って、なんていう女性客もいるのくらいなのだから。
ただ、なんというか。少なからず気がある相手に、というのは初めてで。
自分の力量を量られるに等しいのだから、緊張しないわけがない。


ひとまず頷いて、何がいいだろうかと思案する。ボトルとシェイカーを手にとると、身体は慣れたもので、必要なものを揃えはじめた。
一挙手一投足を見られている。彼の視線にさらされて、自分を見失いそうになった。


磨き上げた透明のグラス。そこにシェイカーから注ぎこまれた液体が、色をたす。
炭酸と、柑橘系の爽やかな香りが広がった。カシスソーダだ。仕上げにカシスの果肉をグラスのふちにそえる。
己の指の震えを感じ取って揺らぐ水面を、少しだけ眺めた。
子どもっぽいと思われるだろうか。作ってしまってから後悔する。


佐々野さんの正面にグラスを差し出す。なんてことはない、働き始めてからそれこそ何百回もやった動作。
短く息を吐く。それで油断したのだろう、手を引くタイミングが少し、遅れた。
グラスを引き寄せようとカウンターの向こうから伸ばされた、佐々野さんの手が、指に触れた。


「、っあ、すみません」
「いや、いいよ」


一瞬。指先がほんの少し触れてしまっただけ、のこと。相手が相手でなければ、俺だって特に気にはしない。
佐々野さんは何事もなかったかのように俺の謝罪を流した。それが普通だ。


それでも、初めてだったのだ。
ほんの一瞬だったとしても、彼に触れるのは。


仕事柄言い寄られることは少なくはない。佐々野さんのように、ひとりで来店してバーテンダーとの会話を楽しむ客もいる。
だから、客をあしらう方法はなんとなく身につけたし、どうあっても平常心で客と向き合ってきた。


「カシスソーダか。久しぶりに飲んだけど、おいしいね」


俺の願いをこめた一杯を飲んで動く、その喉に目がいく。全く別のことに思考を奪われていて、一瞬何のことを言われたのかわからなかった。
指に触れた、その事実だけが、脳を支配し勝手に鼓動を速めて抑えがきかない。カウンター越しの目の前の相手を、強烈に意識してしまっている。


恋まではいかない、ただの好意だと。そう思っていた。未完成な好奇心だったはずの気持ちが、ほんの些細な出来事でいっきに恋心へと昇華した。


飲み終えて俺に礼を言う彼に、またしても無難な返しをしながら、俺の夜は終わっていく。
そして、約束通りにあれを最後の一杯にして、佐々野さんは席を立った。
また来るよ、と残して店の出入り口に向かう、いつもより覚束ない歩き方の彼を、囲われた場所から見送る。
扉の向こうに消えてしまった背中。ため息をひとつついて、俺はまた曇ったグラスを磨く孤独な作業に戻った。


相変わらず店内にはジャズが流れている。誰かが何かを喋らなくても、ここから音は消えることはない。
しかし、ついさっきまでの音を、声を、まだ覚えているから。寂しいだなんて思ってしまうのだ。


どうか、はやく元気をだして。そして、俺に失恋の愚痴なんて聞かせないで。
彼を元気づけるつもりの一杯。しかしそれは、俺のわがままな願いの結晶だった。


カシスの香りに彩られた恋の始まりは、これから俺を苦しめることになるだろう。
彼に触れた指先は、熱いままだった。


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カシスソーダ…「貴方は魅力的」


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