言ったが最後

残業に似つかわしくない雰囲気が、ここには漂っていた。

「…先輩…」
「………握るのは俺の手じゃなくてペンにしろ」

何が楽しくて花の金曜日に残業なんだ、しかも男とふたりっきりで。
あとは若いおふたりで……ってこれはお見合いか何かか、と定時で上がった同僚を思い出しては苛立ちが蘇る。

部長にこいつとの残業を言い渡されたときから嫌な予感はしていたんだ。
けれど、ここは職場。
こんな場所でまさかな、なんて油断していたらこうだ。

握られて強張った手。
誰に見られているわけでもないが、オフィスで男ふたりがこんな状況になっているのはいかがなものか。

「好きです」
「うっ」
「先輩は…?」

まただ。またこの顔。
しょんぼりを絵に描いたような表情に、どうにも言葉が詰まって仕方がない。

新人の頃俺が面倒を見てやったせいか、気づいたら懐かれていて、気づいたら、なんというか、恋人のような関係にもなっていた。
というのも、最初は可愛い後輩だと思っていたのに、そんな後輩から好きだの可愛いだの言葉をぶつけられて、困惑しているうちに部署でもお馴染みのふたりになってしまって。
所構わずくっつかれて、さすがに人の目が気になるからと家に上げたのが運の尽き。
半ば襲われるように抱かれてしまって、現在にいたる。

「先輩……」

俺の気持ちなんてお構いなしだというのに、それでも強く拒絶できないのは、今みたいに暇さえあれば好きだ何だと言われるからだ。
そんなはずはないとわかっているが、垂れた犬耳やら尻尾やらが見えてしまうから、実家で飼っている愛犬を思い出して無下にできない。
何を隠そう、俺は犬派なのだ。

「……いいから仕事しろ。このままじゃ帰れねぇぞ」

しばしの間が空いて、小さな返事の後ようやく手が解放される。

すでに終電は逃しているものの、会社に泊まるなんて勘弁だった。
寝るなら布団に限る。
だから早く仕事を片付けて早く家に帰ろう。
そう自分に言い聞かせて、脳裏に焼きついたあの表情を頭の端に押しやった。

(……なんなんだ…)

重みも体温も離れ、自由になったはずの手の動きがなぜかぎこちない。
キーボードを叩きながら、俺はそれに気づいていないふりをした。





かたかた、ぱらぱら、キーボードを打つ音や紙をめくる音。
順調だ、怖いほど順調に進んでいる。
沈黙が続く中、俺は何杯目かもわからないコーヒーに手を伸ばした。

きっとまたすぐに構って攻撃が始まるものだと思っていたのに、そんな素振りが少しも見えない。
コーヒーを口に流し込むも、どういうわけか苦いだとか熱いだとかの感覚が麻痺していた。

(それもこれも……)

こいつのせいだ。
時折隣に目を向けるも、沈みきった横顔が視界に飛び込んできて、そのたびに俺は手元の書類に目を落とすことしかできなかった。
口を開いては閉じ、閉じては開いて、その繰り返しで喉が渇きコーヒーを口にする。

気まずいこの空気を打破するにはやはり、先輩である俺が折れるしかないのか。
というか、俺に好きって言ってもらえないだけでそんなにへこむものなのか。
なんかそれって、なんか、なんか…ーー

「…あの、さ…」

なるようになれ、と言葉を紡ぐ。
こちらを向いたのか、隣の椅子がキィ、と音を立てた。
まだ顔を合わせる勇気がなくて、俺はあたかも書類を読む片手間で話すように目で文字を追っていく。
内容なんてこれっぽっちも頭に入ってこないけれど、何か別のことをしていなければ口が止まってしまいそうだった。

「なんでそんなに言わせたがるんだよ、見てれば…わかるだろ」
「え?」

ほとんどやけくそだった。
ばっと顔を上げれば、揺らぐ瞳に見つめられる。
しばらくぶりに目が合ったことで、心臓が鼓動を速めた。
まったく、単純にもほどがある。

「だから…っ」

かぁっと熱を帯びる頬。
重役揃いの会議に出席したときでさえ、こんなに緊張することはないのに。

「俺がこんなにいっぱいいっぱいになるの、お前くらいなんだよクソ…!」

ゆっくりとその目が見開かれていく。
その様子を最後まで見ていられなくて、俺は早々に顔を背けた。

そうだ、お前だけ、お前だけなんだ。
こんなに俺が俺でなくなってしまうのも、こんなにただひとりのことで頭がいっぱいになってしまうのも、お前だけだ。
わかれよ、わかってくれ。


火照る顔を冷やしたくて、椅子から立ち上がり逃げるように窓際に向かう。
向かいのビルにもぽつりぽつりと明かりの灯った部屋があって、同じように仕事に追われているのであろう顔も知らぬ人たちに、同情にも似た仲間意識を覚えた。
そのまま窓にこつりと額を当てれば、夜の空気に冷えたガラスがゆるやかに熱を奪っていく。

(…何やってんだか…)

先輩なんて形ばかりだ。
いつだって振り回されるのは俺で、逃げ出すのも俺。
体当たりでぶつけられる感情を無視できるわけもなく、受け止めはするけれど、同じように本音を返すことはできない。
言葉にできない気持ちはぐるぐると心の中に渦巻いて、逃げ場がないから大きくなるばかりだった。
わかっている、自分の気持ちは自分が一番わかっているんだ。
一度口にしてしまえば楽になることも知っている。
けれど、溜め込みすぎたせいでいまだに吐き出し方を見つけられずにいた。

「……先輩」
「なんだよ!今話しかけんな!」

薄く反射する己の姿の向こうに、声の主の姿があった。
顔なんて見せられるわけがない。
見てればわかるだろ、だなんて、そんな、体全部で気持ちを表しているような告白を思い出して、落ち着きを取り戻しかけた頬がまた熱を持った。
深く吐き出した息でガラスが白く曇って、そして再び元の姿を取り戻す。

「俺…それでもやっぱり言葉で聞きたいです」
「はぁ!?」

一世一代の告白をしたというのにまだ足りないのか。
あれを告白と位置付けるのは少々無理があるかもしれないが、俺にとっては精一杯だったんだ。
もう許してほしい。
けれど、望む言葉を口にしない限り、きっとこの男は満足しないのだろう。

「ね、先輩…俺のこと好き?」

後ろから抱きしめられて振り返れば、その顔のあまりの近さに言葉を失ってしまう。
振りほどかなければ。逃げなければ。
そう思うのに、頭に浮かぶ選択肢はどれも実行されることはなかった。
端っこに追いやったはずのあの表情が頭を占めて、その腕を拒むことができない。

「先輩……はぁ……先輩……っ」

首筋に、ちゅ、ちゅと唇が触れる。
答えを促すようなそれは、肌に落ちてくるたびに気持ちまで流れ込んでくるようで、どうにもくすぐったい。
むずかゆさに顔を上げれば、ガラスに反射する密着したふたりの姿に脳が茹って、俺は今更のように我に帰った。

「盛るな…っばか、待て…っ」
「好きって言って…一回だけでもいいから…」

体を抱く腕が、ぎゅうと強さを増す。
同時に尻まで押し付けられて、わかりたくもないその感触を、それでもわかってしまった体が一瞬で硬直した。

「うぁっおま、何固くしてんだ…!」

尻に擦り付けられるそれは、布越しだというのに圧倒的な存在感を放っていた。
俺が固まっている間にも股に足が入り込んで、確実に逃げ道を塞がれていく。

「な、なぁ…待てって…」
「は…っ無理…待てない」

首筋にかかる吐息が熱い。
その熱に溶かされて、なんだかうっかり俺まで箍が外れそうになった。

「先輩、……したい…」

欲情を隠しもしない声に鼓膜が震える。
はっとして首を横に振るも、尻に押し付けられるものは先ほどより硬度を増して、いよいよ危なくなってきたと感じた俺は最後の切り札を切った。

「家まで、家まででいいから我慢しろ…っ、家ならその、好きなこと…していい、から……」

透明な窓ガラス一枚、そんな心もとない存在に縋りながら声を絞り出した。
これが最大限の譲歩だ。
恥ずかしすぎて最後は小声になってしまったけれど、これが俺の限界だった。

「……」

体を撫で回す手がぴたりと止まる。
家で何をされるのか考えるだけでも恐怖だが、こんな場所であれこれされてしまうよりはずっといい。

「な…?とりあえず、今は…」

ほっと胸をなで下ろしたのも束の間。
やんわりと押しのけようと体をよじった瞬間、強い力で再び腕の中に閉じ込められ、俺は目を見開いた。

「……あんまり可愛いこと言って煽んないで」

耳に届く、興奮を押し殺した声。
その声にぞくりと背中が震えて、俺はここでやっと、とんでもない餌を撒いてしまったのだと理解する。

「あ、あ……やだ、ぁっ」

大胆さを増した手が服の中にまで滑り込んできた。
大きな手の平が、長い指が、皮膚越しに触れる熱さが、ちりちりと理性を焼き切っていく。
ひんやりとしたガラスと熱い体に挟まれて、もう何が何だかわからない。


俺が馬鹿だった。
もう無理だと、待てないと、そう断言できるほど我慢していたこの男がこれ以上我慢なんてできるはずもなかったのに。

唇を噛み締めるよりも早く、それを阻止するように口内に指が入り込んで、閉じることを許されなかった口から唾液が伝い落ちる。
あやすように上顎を指の腹が撫でて、図らずしも鼻から甘い声が抜け出た。

「やば…、止まんね……家まで我慢できたら何させてくれるつもりだったわけ…?」
「っん、ふ…っ」

そんなの、俺が知りたい。



----------
タイトルセンスが皆無なので、お題サイトからお借りしました
恋したくなるお題

(2015/10/22)

(BACK)

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -