来訪者


煉獄家に来て半年ほど経っただろうか。道に弱い私はこの広い屋敷の中でしょっちゅう迷子になっていたが、そういうこともなくなった。


相変わらず、お父様と杏寿郎さんとはすれ違いの毎日。

お父様は最近、お酒の量が増えてきている。任務から帰られてから次の任務までの間、ほとんど部屋から出て来られない。毎回の食事は部屋までお持ちするようになった。必ず声をかけて部屋を開けるのだが、お父様は必ずこちらに背中を向けて返事もされない。最初は私のことが気に食わないからこのような態度なのかと心配だったが、どうやら杏寿郎さん達にも同じ態度のようだ。
千寿郎くんがお父様に声を掛ける時にいつも不安そうだったから、私が毎回食事を持っていくようにしている。お父様の分のお味噌汁をこっそりしじみのお味噌汁にしていることは、千寿郎くんにも内緒だ。

杏寿郎さんも相変わらず忙しそうだ。日中は稽古、稽古、稽古。千寿郎くんに教えたり、一人で打ち込んだり。時には部屋に籠って何やら難しそうな本を読んでいることもある。煉獄家に代々伝わる指南書、とのことだが、内容はさっぱり分からない。現在お父様が担っている炎柱を目指しているらしい杏寿郎さんは、とても真面目に日々鍛錬を重ねている。それを日暮れ前までこなしてから、任務に出られる。そんな忙しい毎日を過ごしている杏寿郎さんに私ができることは、日々の生活を支えること。それくらいしかできないけれど、それくらいならできる。



家のことを一通り済ませ、お父様と杏寿郎さんを見送り、千寿郎くんと夕餉を済ませる。片付け、湯浴みを済ませて、それぞれ床につく。それが日常になりつつも、充実した毎日だ。


杏寿郎さんの部屋と襖を隔てて隣合わせの自室に入り、机の上に置いてある鏡を見ながら乾いたばかりの髪を梳かしていく。鏡の横には、杏寿郎さんから貰った簪。つやつやと滑らかな漆の手触りと上品な柄が素敵だ。普段使いには勿体無いと仕舞い込んでいたら、杏寿郎さんから「よもや、気に入らなかったか!」と言われてしまい、今では毎日付けている。

部屋の壁側には、仕立ててもらった着物。何度見てもうっとりするその着物は、着ない日でも目に入るように衣桁に掛けている。家の中だけでしか着ないなんて勿体無くて、こうして目に入るところに飾っている。本当に綺麗な着物だ。
初めて袖を通したのは、杏寿郎さんとこの着物を受け取りに行った時。女将さんが着付けてくれて、その足で杏寿郎さんと少し街を歩いた。よく似合っている。何度もそう言ってくれて、本当に嬉しかった。また杏寿郎さんと出掛ける時に着たい。そう思ってはいるものの、あれから中々その日は訪れてくれない。一抹の寂しさを覚えたが、杏寿郎さんだって毎日忙しいんだから、と自分の両手で頬を叩き、余計な考えを捨てた。



布団に入ると、疲れが下へ下へと抜けていく。それと同時に、布団と体が一体になって交わっていくような感覚になる。あぁ、気持ちいい。ここから抜けたくない。自然と瞼が重くなり、程なくして私は眠りについた。






ザッ…ザッ…ザッ…
ガタ、ガタ、



夜中、物音で目が覚めた。
一人暮らしをしてたせいか物音に敏感になった私は、然程大きくもないその音ですっかり眠気が飛んだ。
音は、庭の方から聞こえる。

お父様や杏寿郎さんなら、きちんと玄関から入って来られるはずだ。それに、こんなに引き摺るような足音を立てる方々ではない。月明かりに照らされて、障子に人影が映る。人影は真っ直ぐにこちらに向かっており、その影がはっきりしてくる。

泥棒、だろうか。そう考えた瞬間、冷や汗が吹き出す。
千寿郎くんはまだ幼い。私が何とかしないと。


ガラッ


開いた障子の先に立っていたのは泥棒ではなかった。



「…杏寿郎、さん?」



そこには、俯いて立っている杏寿郎さんがいた。
ほっと肩の力が抜けて、立ち上がって側に寄る。その目は今にも閉じそうに細められていて、顔や体のあちこちが泥で汚れている。いつもの快活な表情が抜けた杏寿郎さんに、先程とは違う不安が押し寄せてくる。



「杏寿郎さん、どうされたんですか?どこかお怪我でも?…とりあえず杏寿郎さんの部屋に行きましょう。歩けますか?」



声を掛けると、杏寿郎さんが俯いた顔を少し上げた。光のない目がかち合う。



「杏寿郎さん…?」

「…桜…」

「?…っ、わ、」


杏寿郎さんは、私の肩に顔を埋めた。
かと思ったら、そのまま体重をかけて倒れ込んできた。頭ひとつ分は大きい杏寿郎さんの体を支えられる訳も無く、私はその重さに耐え切れず後ろに倒れた。



「きょっ、杏寿郎さん!?どうしたのですか!?杏寿郎さ…ん?」



突然のことに慌てて杏寿郎さんの肩を押すも、完全に力の抜けたその体はずっしりと重たくてびくともしない。耳を傾けると、規則正しい息の音。
ね、寝ている…



「…どうしよう…」



杏寿郎さんは私の肩に顔を埋めていて、表情を見ることは叶わない。何度押してみても、体はびくともしない。抵抗するのは無駄だと思い知り、はぁ、と溜息を吐いた。どきどきする以前に、体が重たくて自由が効かなくて、どうしよう、と思わず口から溢れた。
すー、すー、と耳元で寝息が聞こえる。余程深い眠りのようだ。頬に当たる髪はふわふわしていて、触ってみると手触りが良い。どれだけ走ったのだろう、汗と泥の匂いが混ざっている。しかし不思議と嫌な匂いではなかった。何故かその匂いで、また眠気を誘われる。
動いてもどうにもならないし、私もこのまま寝てしまおうか。そう考える前に、また瞼が重くなった。






「…ん…」



目が覚めると、いつもの天井。
陽が昇ったばかりの外はまだ仄暗い。
体の上には、杏寿郎さん。ではなく、いつもの布団が乗っている。
上体を起こしてみると、私はいつものように布団の中にいた。
夢だったのだろうか。
目を擦ろうと手を見ると、ほんの少し泥が付いていた。
…やっぱり、夢じゃない。


浴衣の上から羽織りを着て、隣の襖を軽く叩く。
短い返事が聞こえて、少しだけ襖を開けた。
そこには浴衣に着替えて布団の上で正座をし、腕を組んでいる杏寿郎さんがいた。



「杏寿郎さん、おはようございます…何をされているんですか?」

「おはよう!昨夜はすまなかった!己を戒めるために瞑想をしていたところだ!」

「…戒め?」

「君の上に乗って寝てしまっただろう!不甲斐ない!今後あのようなことがないよう肝に命じておく!」



相変わらず、どこを見ているか分からない目でハキハキと話す杏寿郎さん。昨夜の虚ろな目が嘘のようだ。



「…杏寿郎さん、昨夜は何かあったのですか?」

「何かあった訳ではない!鬼が少々多くて疲れてしまってな!君の顔が見たくなって帰ったはいいものの、正直家に着いてから記憶がない!起きたら君の上で寝てしまっていた!よもやよもやだ!本当にすまなかった!」

「あ…いえ、お気になさらず…」



さらっと、顔が見たくなった、と言われた。
押し倒された時には然程思わなかったくせに、頬が熱を持って仕方ない。



「…最近、とてもお忙しくされていて疲れていたのでしょう?休むことも大切ですよ。体はひとつしかないのですから」

「うむ!そうだな!」

「昨夜はよく眠れましたか?」

「驚くほどよく眠れた!君は眠れなかっただろう!汗と泥が酷くて申し訳なかった!」

「…いえ、私も、何故か驚くほどよく眠れました。布団に運んでいただいたことに気付かないほどに」

「そうか!それは良かった!」



「…」

「…」



「…杏寿郎さん」

「何だ!」

「…これから、同じ部屋で寝ませんか?」

「…ん゛っ」



杏寿郎さんが固まった。
どこを見ているか分からない目のまま、腕を組んで動かない。



「…いくら許嫁でも、婚前の同衾は流石にいかん!自分の体を大切にするんだ!」

「あっ、ご、語弊がありました!その、あくまで布団は別で、この襖を開けて布団を並べませんかということで…!そ、その、変な意味はありませんので…はしたないと、思わないでください…」



尻すぼみになった言葉は杏寿郎さんに届いただろうか。また私達の間に沈黙が走る。



「…その、一人暮らしをしてたせいか、すぐ物音で目が覚めてしまって、ずっと眠りが浅かったんです。なのに昨夜は本当によく眠れて…
杏寿郎さんも、ずっと気を張って眠りが浅かったのではないですか?
昨日の杏寿郎さん、本当にお疲れのご様子でした。もし杏寿郎さんがよろしければ、その、同じ部屋で休んでいただけたらと…」



はしたないと思われたくないための言い訳がましい言葉を並べる。杏寿郎さんは相変わらず表情が変わらない。自分ばかりが舞い上がっているようだ。



「…分かった!ただし、布団はくっ付けずにほどほどに離すこと!君が眠れない場合は同室で寝ることを取り止める!いいな!」

「は、はい」



杏寿郎さんはそう言うと、初めてこちらを見た。ぱちっ、と視線がかち合い、程なくして逸らされた。
杏寿郎さんは私のように、色んなことに心を取り乱したりしないのだろうか。昨夜の虚ろな表情を思い出す。本当は、どこか無理をしているところもあるのかもしれない。



「…着物、飾っているのだな」

「え?」

「以前見立てた着物だ」

「あ…はい。本当に綺麗で、着ない日も眺めています。せっかくだから、また杏寿郎さんと出掛ける時に着ようと思っていて」

「…ならば今日は少し出掛けるか!」

「え…良いのですか?」

「せっかくの着物を眺めているだけでは勿体無い!」

「…ありがとうございます。では、千寿郎くんも誘って甘味処にでも行きませんか?」

「それは良いな!」



快活に笑う杏寿郎さんに、私も笑みが溢れた。杏寿郎さんには、やっぱり笑った顔が似合う。でも、その笑顔に影を落とす何かがあるのなら、少しでも取り除きたい。そう思うのは烏滸がましいだろうか。
この部屋を隔てる襖をどこに仕舞おうか。笑いながら、そんなことを考えた。





 


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