「ただいま」

仕事から帰ってきた彼、玄関から聞こえた声がわたしの胸をいっぱいにさせる。いつもよりずいぶん早めのお帰り。窓から見える四角に切り取られた夕空はまだまだ橙とすみれ色のあいだにいた。なんだかきょうはいい日かもしれないなあ、君がこんなに早く帰ってくるなんて!やがて聞こえてくる足音に、オーブンのなかでオレンジのスポットライトがあたるグラタンから視線を上げる。ちょうどひょっこりキッチンにのぞいた顔、そのかわいいしぐさに思わず頬がゆるむ。やっぱり君のかわいさはむかしとちっともかわらないね。

「おかえりなさい!」
「どうしたの?そんなうれしそうな顔して」
「えっ…そんなにうれしそうな顔してた?」
「うん」

ほほえんで士郎はあたまをなでてくれた。それからちょっと屈んで鼻先に小鳥みたいなキス。そうっとひらいたまぶたの目の前で、魔法をこぼしそうに君がゆるませた目じりはまるできわめつけのスパイスみたいだよ。ぎゅうっと心臓がふくらんで、うれしさに頬が染まる。はじめて彼がおでこにそうしてくれたときの、林檎も嫉妬するほどの赤さに頬を染めうろたえてた中学生のわたしが あたまの隅っこにいた。大人になったわたしをからかうような視線で見つめほほえむ中学生の士郎もとなりにいた。きょうはこんなにも君がいとしく、なにかがはじまりそうな予感。背中をつつくような振りむきたくなるようなくすぐったい気ぶん、いつの間にわたしは魔法使いみたいな技を使えるようになったの?トマトを切りながら考えてたら、いつの間にかゆるいトップスとチノパンに着替えてきていた士郎がびっくりするようなことを言いだした。

「どこか行くの?」
「散歩に行こうよ」
「いま?」
「いま」
「グラタン焼いたまま?」
「すこしだから、ね?」

予感って、これ?わたしの第六感はどこかひとつネジがなくなってしまったのかも。かわりに士郎のことばでも詰めておこう。はたしてそれは正解だったのか、手をひかれるまま焼かれているグラタンをおいてふたつの足音が散歩へ出発。


手をつないで歩く。すみれ色と橙の夕暮れどき、むかしばなしのなかにいるようなふしぎな感覚に、つないだ手をそっとゆらしてみる。地面に縫いつけられたふたつの影がなかよく寄り添ってわらう。士郎、なんだかこんなのすてきだねえ。恋人繋ぎで手をつないで、おなじ速度で歩いてる。映画みたいにこのまま遠い外国にでも行ってしまいたくなるような心地。

「…お腹すいたなあ」
「帰ったらご飯うんとよそってあげる」
「楽しみにしとくよ」

もちろん愛だって詰まってるんだからね、なんて恥ずかしくって言えないけどかわりに握った手にほんのすこしちからを込めてみる。そうすれば君がきょとんとした顔をするから、それがかわいくってわらった。

「なんでわらってるの」
「だって士郎がかわいいから」
「そういう恥ずかしいこと言うんだから」

僕もう大人だよ?…士郎はわたしの顔をのぞきこんで口をとがらせる。またかわいいってわらえばむっとして、「うれしくないよ、かっこいいって言って」ですって。そんなあなたがだいすきよ?

「士郎」
「うん?」
「あああ…やっぱりなんでもない」
「なあに、気になる」

ちょうど夜のはじまりを知らせるようにやわらかな風が士郎の髪を揺らしてく。すべてがそろってる君に胸張って言えるようになるまで、あとすこしだけ待っててね。うしろから聞こえてきた楽しげなわらい声に振りかえれば、サッカーボールを抱えた男の子に手をひっぱられて女の子が駆けていった。いつかどこかで見たような景色に、なんとなく士郎の横顔を見上げる。

「公園に行ってもいいかな」

そっと士郎がつぶやいた。



公園の真ん中を、士郎は何にも言わずにわたしの手を引いて歩いていく。そのままどこに行くのかと思えば森のなかを抜けてつづく丘に出るなり足をとめた。一面に見えるたくさんのちいさな屋根と足元でほほえむ白詰草、もうすっかりすみれ色になった空に星がかがやきだす。

「…今度ここで天体観測したいなあ」
「ここならきっとよく見えるね」
「楽しみ!じゃあそのときはあったかいミルクティーつくって持ってこよう」
「それじゃあ僕は君がお腹すいたときのためのお菓子持っていかないと」
「わたしそんなに食いしんぼうじゃないよ!」
「どうだろうね」

わらう士郎の腕をやさしくつねってやった。そんなに食べてたっけわたし。アイスとかホットケーキ食べるのすこし控えようかしら?…あたまのなかで始まるカロリー計算にしかめっ面をしていると、横から聞こえたことばに思わずうつむいた。

「君がおいしそうになにかを食べるの、僕はだいすきだよ」

あっという間にぽろぽろと数字がこぼれてく。そんなこと言われたらわたし、いくらでもケーキ食べれるよ。もう食べきれないくらいになってもやめないんだからね。「下向いてないで、こっち向いて」手をつかまれて顔を上げると、いままでわらってた士郎はどこへやら、何もかも見透かしそうにまっすぐわたしを見つめる視線。とたんに息するのも忘れるように動けなくなる、ああこんなことむかしもあった。

「…ずっと僕のそばにいて」
「!」

士郎の骨張ってる細い指が、わたしの左手の薬指にゆっくり指輪をはめた。スプーンよりもっとぜいたくにかがやいて、わたしを見上げる銀色の指輪。「結婚しよう」…ほほえむ士郎を見て大きくうなづけば、涙がぼろぼろこぼれてほっぺたを濡らした。君は世界一かっこよくてかわいいんだってこと知ってるの、わたしでいいの?お人形さんみたいな女の子だって子鹿のようなかわいさの子だってこの世界にはたくさんいて、わたしはときどき肉じゃがを作るのにさえ失敗してしまいそうになるっていうのに。…士郎の瞳は星と月の光を飲みこんだようにきらきらして、だれも知らない宇宙みたいだった。それをわたしがこれから先も見ていられるということ。またこぼれて止まらない涙に、彼は屈んでおでこ同士を合わせてほほえむ。

「…しあわせにする、必ず」
「!!…は、はい」

こぼれた不安も涙も食べつくすようにキスをくれた。しょっぱいやってわらう君にしあわせにふやけそうになる頬でわらい返すと、また一粒だけ涙が落ちてった。夢みたいよ。きっとお家ではグラタンが焦げそうにオーブンのなかで待ちぼうけていて、手をつないで帰ったらふたりでスプーン持って食卓に並ぼう。おいしいしあわせをほおばろう。見えない最終章までわたし、あなたとどこまでも歩いてく。




やさしさの純度
plan adulty



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