冷えた水の刺すような痛覚と息苦しさを無かったことにした此の場所。感覚さえ与えない海に沈んでいくのは自分の身体だというのに自由の利かなさにまるで他人事、それでも口から零れ落ちていく空気が浮かんでいく様はあまりに綺麗で見とれてしまう。
 幼い頃の真夜中に囁いた夢の恐怖は今はもう忘れてしまった名前でも、沈みゆく身体から見上げた先に伸ばされた手があったことは確かに覚えていた。


 昨夜に締め忘れた窓から降り注ぐ日差しと鳥ポケモン達の朝を告げる鳴き声がする平日の朝が今日もまたやってきた。

「おはよう優羽、千夜。朝ご飯準備してくるからちょっと待っててね」

 晴天でお洗濯日よりな今日。窓の外へ声を発すれば早起きのチルタリスの優羽はやわらかな羽を揺らして返事をする。どうやらボールから出て朝の散歩にも出掛けたようで機嫌がいいらしい。対して一緒に散歩に出掛けたであろうフワンテの千夜は家の木に巻きつけて二度寝をしている。
 千夜が飛んでいかないように見ておいて。名前が眠たい眼を擦りながら告げれば、数年前共に世界を回った仲間の優羽は人目につかない木陰でその姿を変化させる。自由の利く五本の指先で掴んだフワンテを腕先に巻きつけて支度を急ぐ彼女のもとにゆっくりと歩みよった。

「名前さん、千夜くん連れてきましたよ」
「…優羽?あれ、人型になったの?」
「木に巻きついて二度寝した誰かさんを引っ張ってこなくてはいけませんでしたから」
「ならポケモンフードひとつでよかったね、優羽の分は戻すよ。そろそろパン焼けるから一緒に目玉焼きでものせる?」
「僕が作りますから名前さんは他の支度していいですからね」

 ポトン、パタン。
 自家発酵出来るパンが焼けたようで、彼女に甘いパートナーが毎朝のように渋る姿を宥めながらキッチンから追い出した。唇をすぼめて抵抗をみせるのは主としての責任よりも女の子としての意地。ましてやカフェで働く側としては自分よりおいしくパンを焼ける彼がちょっぴり羨ましくてつまらない。それは貴方がつくるパンがよいからですなんて言われた日には、優秀な家電ですからと返してしまった微笑ましいことがあったくらいに。
 目玉焼きが焼ける音、目を覚ました千夜が優羽から離れてイスに巻き付くまでの二人の会話。ありふれた日常の小さな幸せを感じながら名前達が支度を終えて家から出たのはそれから一時間後だった。

「マスターおはようございます」
「あらおはよう、今日も名前ちゃんは元気ね」
「それが取り柄ですよ?」
「ふふ、そうね。じゃあ今日もお願いするわね」

 お勤め先のカフェでエプロンに着替えて、キッチンでお手伝いをするマスターである彼女のミネズミたちに挨拶をすませて名前のカフェアルバイターとしての一日ははじまる。軽食はお手の物、マスター直伝の珈琲や紅茶だって木の実のシェイクも此の二年でとても成長した。
 パートナーのチルタリス一匹をつれて世界を回った旅を終え、此の街に生活拠点をおいてからの日々は実際よりも早く感じている。

「そうそう、あとでコーンくん達のところに行って欲しいんだけどいいかしら?」
「大丈夫です。いつでも声かけてください、優羽でひとっ飛びですから」
「名前ちゃんのチルタリスがあれば遠くへの配達も可能になりそうね」
「マスターに優羽はあげませんよ?」

 意地悪そうにキッチンで微笑む名前に店の常連客は朝からミネズミ相手に語りかけながら、名前ちゃんのチルタリスはバトルも強いからなあと笑っている。ジムを全て回らなかったとしてもチルタリスで対抗できる箇所のバッチは幾つか手に入れているのだからそれもそうだろう。
 配達、ねえ。どこかマスターが意味深く呟いた言葉に気づかぬ名前はキッチンでミネズミとお皿を洗っている。
 エプロンにつけられたボールの中でかたかたと揺れる優羽はこれからおこりそうなことを分かってか、ひとつ大きく深呼吸をした。