家業が故に和を強調した母屋に鉛筆が紙を走る音がする。実家が代々伝わる和菓子屋の本家ということもあり、和菓子の包みに使えそうな和柄を考えていた音だった。苗字家では家の者が包み紙の模様まで歴代から行ってきたとあれば、名前とて其の役割からは逃げられない。桜柄は在り来たりだろうし、母様は今度作るお菓子はこんぺいとうだとも漏らしていた。彼女のことだ、色彩にとんだものを考えているに違いない。
 良い案が浮かばないと正座していた足を崩して口を窄める。名前の元に電話が掛かってきたのはそんな時だった。
 丁度良い頃合だ、痺れる足に渇を入れながら玄関先まで走り出す。自室から玄関までの距離があるからこそ、途中途中で小言が飛び交う。廊下を走るな、何所へ行くつもりですか等聞こえたけれど、仕えの者も言って聞く娘などとは思ってもいないのか追ってはこない。

「修二から電話がきたから出かけてきまーす」

 玄関に座り込んで学校指定の革靴に足を通していればお玉を片手に強面の男が名前を追いかけてきた。そうだった、誰も追いかけてこないは御幣がある。此の過保護なお目付け役だけは別だった。最も、格好が和服の上にエプロンであっては怖くも何ともないけれど。

「あ、お嬢!遅くならないようにしてくださいよ!」
「大丈夫大丈夫!今日中には帰るから!」
「せめて夕飯までには帰ってくださいよ!」

 俺が今夜は作るんですから、なんて背中に言葉が当てられた気がしたまま名前は走り出す。幼馴染からの電話では今日から一週間何らかの手伝いをして欲しいらしい。修二こと咲山修二には父方の家業が同業者らしく、昔から仲よくして貰っている。そんな彼から、何かをお願いされて加えて急な呼び出しがあったのは今回が初めてだ。自宅から彼の待つ帝国学園までは電車で一駅という距離、精々三十分もあれば行くことが出来るだろう。最寄り駅から帝国学園の近くの駅に行く間、何を頼まれるのか面白いことがあるのかと口元を緩めながら暇を潰した。
 到着を知らせるアナウンスが耳に入り、電車を降りる。履き慣れた革靴で軽やかに跳びながら帝国学園の入り口まで来れば見慣れた人がそこには居た。

「あれ、お迎え修二じゃないの?」
「…咲山は練習中だ」
「じゃあ渡ちゃんはサボタージュ?」
「馬鹿か。お前の迎えに来たんだ、お前の」

 関係者以外は入れないだろ、此処は。少しながら不満が残っていそうな名前の頭を無造作に撫でた辺見は付いて来いと一言加えて歩きだす。
 咲山と幼少期より仲がいい、というよりは悪友として今まで関ってきた辺見は必然的に彼女とも関りを持つようになった。家柄も良く、身分も上下関係も弁えている名前であっても、幼馴染と辺見だけは別なようで砕けた口調で話しかける。但し、其れが二人っきりだったり三人だけの時だけなのだから質が悪いと辺見は思う。こうして校内への立ち入り許可を貰う為に警備員の元で書類を書く俺の隣で彼女は自分の身分をご丁寧な口調で説明しているのだから。自分を先輩とは思っていないのではないかとも思うことはあるが、慕われているからこそだと考え方を変えれば溜息はつかずに済んだ。

「渡ちゃんは修二の頼み事って何か知ってる?」
「まあ分かるが、本人の口から聞いたほうがいいだろ」

 書類を書き終えたのだろう。隠すまでも無くさらっと言い退けて歩きだす辺見の後を追いかける。制服姿や私服姿は見慣れているけれど、ユニホーム姿で自分の前を歩く辺見を見るのは久々だった。幾分も自分より背が高いくせに、此方に合わせた歩幅で歩いてくれる。
 サッカースタジアムに着くまでは飽きないように此の場の特徴を述べてくれたり、メンバーの説明もしてくれた。今日は来ていないが、不動という人が今はキャプテンであることや、成神と洞面と椋本という一年生が居るということ。鬼道の代わりに今は佐久間が部内を仕切り、部長としての役割は源田が行っている、此れを述べた時の辺見は何故か嬉しそうな顔をしていた。
 彼等の間で、また中学サッカー界で色々とあったことは濁された部分もあったが咲山から聞いている。鬼道さんとは鬼道家や苗字家の会合で昔も今も良く顔合わせはする。世界大会こそ、鬼道さんは別として知り合いが出ていないこともあり現地応援には行かなかったが、修二と渡ちゃんとテレビを囲んで観戦したものだった。あれから数ヶ月、学年が上がる直前となった長期休みの今、こうして帝国の生徒が、彼等が、楽しそうにサッカーをしているのは名前にも嬉しいのだ。特に、以前までは頑なに試合どころか練習にも呼んでくれなかった二人が此の場に呼んでくれたのだ。喜ばしいことこの上ない。
「いいか、一応はお前のこと咲山が説明してたけど挨拶くらいはちゃんとするんだぞ」
「渡ちゃんに言われなくったって、挨拶くらいできるよ。もう私だって中学生になって一年終えようとしてるんだよ?」
「それもそうか、大きくなったなお前も」

 何だかおじさんみたいだね渡ちゃん。そう言えば首根っこを掴まれたが痛い痛いと笑って言えば、嘘も程々にしとけと返ってくる。スタジアム内部の長い廊下を渡り、大きな扉を開けて貰ったことで一面に整備されたサッカーグラウンドが広がっていた。例え此方に気づいていても誰かしらの号令があるまでは練習は止められないのだろう。良い緊張感の漂う空気を吸い込む。スパイクでは無い自分がフィールドを汚すことは無いように、フィールドの端を歩けば、また後でという言葉と共にくしゃりと頭を撫でられた。
 そこから佐久間の号令が掛かるまでの時間は僅か数分であっただろうが、名前にとっては長く感じる程に帝国のサッカーは息を呑む世界そのものだった。