紅茶の香りが心を落ち着かせてくれる焼き菓子に、甘めに作って貰った珈琲。小洒落た喫茶店の一角で、名前は一時を過ごしている。机を挟んで向かい側で携帯電話を片手に時折笑ってみせる弥谷はとても幸せそうだった。
 先程鬼瓦により新帝国学園でサッカーをしていた生徒の中で、弥谷や不動等と一際激しい練習を重ねた仲間の十六人の連絡先の記された資料を頂いた。別れ際に、彼は二人に向かって、サッカーは楽しいものだと意地悪そうに笑って見せている。弥谷は鬼瓦は自ら新帝国学園でのサッカーを選んだことは知らないはずなのに、何かを悟ったような口ぶりをするので頭を下げる他なかった。
 きっと、彼だからこそ、今回の事件に関わっていたのだろう。名前も弥谷に続きお礼を述べた頭を下げた。いつか弥谷が公式試合に出る機会などがあれば、招待するようにと。此の約束が資料の対価とでも考えて欲しいと約束を交わして。

「次は暁だな」
「佐久間くん何って言ってた?」
「俺等とサッカーする日までには足を治しとくってよ。もし治らなかったら源田に背負わせてでも行ってやるってさ」
「源田くん隣のベッドで聞きながら頭抱えてたかもね」
「まあ源田のことだ、万が一佐久間が歩けなきゃお姫様抱っこしてでも連れてくるだろうな」

 一人一人と連絡をとっていく。短い期間とはいえ、過ごした時間は濃いものだったのに、誰一人として連絡先すら交換していなかったのには苦笑さえ出てきそうだ。まるで自分のことのように喜ぶ名前を視界に入れながら、次の相手にと、暁の連絡先が記入された場所を指でなぞった。
 もう一度全員で集まりたいという願いは、弥谷のものだけではなかった。佐久間達をはじめ、唯一の女性選手だった小鳥遊も素直じゃない態度をとりながらも、会いたいと呟いた。
 十四人との連絡を終えた頃には空も暗くなり、飲みかけの珈琲も温くなってしまっている。ふと、名前のカップも覗けば残りも少なくなってしまっていたのでウエイトレスを呼んで二人分のおかわりを頼む。弥谷の奢りだと伝えられて喫茶店に入った名前としては、おかわりはいいと慌てて首を横に振るがここは男の子として格好をつけたいところであり、また嫌とも言わず付き合ってくれる名前へのせめてものお礼なのだ。
 あたたかい珈琲を運んできてくれた人に、甘めの珈琲はこの子へと名前を指さす。ウエイトレスがさった後に、弥谷くんみたいに砂糖少なめで飲める程大人じゃないと頬を膨らます人には、見栄を張っていることは黙っていなくてはいけない。

「あとは不動さんだけだな」
「電話繋がるといいね」
「一番最初に掛けたのに繋がらなかったからな、出かけてるのかもな」
「前に会った時は学校お休みだって言ってた?」
「言ってたけど、俺等だって出掛けてるんだからあまりあてにならないよ」

 二度目の電話も、三度目の電話も繋がることはなく、用件と連絡先だけを告げて電話を切った。
 あの日出会った時に、不動との会話でもう一度サッカーが出来ないかとの問いをしている。曖昧な言葉を返されてしまったけれど、彼もまた同じ気持ちがあれば連絡をしてきてくれるだろう。確証はないのに、弥谷はまた不動とサッカーを出来ることを信じていた。不動がサッカーを好きだという気持ちは、仲間であった自分だからこそ、理解出来るのだから。

「別に急いで食べなくても良かったのに」
「だって弥谷くん、不動さんが電話最後みたいなこと言ってたから…」
「そうだとしても、食べ終わるまで待ってるんだからさ」

 焼き菓子を一口サイズにフォークで切り分けては急いで口にいれる姿は小動物みたいで見ていて飽きないけれど、笑ってしまえば帰路で一度も口を聞いてくれないかもしれない。俺もまだ珈琲残ってるからゆっくり食べていいよ。弥谷の言葉に恥ずかしくもなりながらも、名前の手の動きは遅くなった。
 逃げたい、両親の視線から隠れたい。その一心で弥谷は名前の元を訪れた。幼馴染のご近所付き合いのある人の家ならば、両親も反対しないだろう。名前の家を選んだのも、その程度の理由のつもりだった。
 果たして、本音はそうなのか。気持ちを隠すように平気な顔を繕う自分の心の片隅では、彼女に会いたいという気持ちが膨れ上がり行動に起こしたとも、とれなくはないのだ。認めたくないと思う恋心も、此の数日で確かなものとなり、受け入れる覚悟は出来ている。
 幼馴染だと思っていた女の子は、知らぬ間に愛しい女の子になっていた。慣れていたはずの手を繋ぐことも、名前を呼ぶことも、隣で寝息を立てることさえ意識してしまう日々に女々しささえ覚える。燻っていた初恋が、目を出した途端に開花してしまっては気持ちが追いつかないのも事実だけれど、相手方の性格が此の恋心を急かすものではないのだから、自分のペースで進んでいけばいい。

「クリーム、口についてるよ?」
「右?左?」
「右の端っこ。舐めとってあげようか?」
「そういう意地悪言うと、弥谷くんの珈琲に砂糖山盛り入れちゃうからね」

 意地悪を返そうとしているけれど、生憎俺は甘い方が好きなんだよね。
 夕食の時間になるまでは、暫くはこうしていてもいいかもしれない。最後の一口を食べようとする名前を他所に、追加注文をとる。お腹が空いているなら一口どうぞ、なんて確かにおしい選択かもしれないけれど、弥谷は後数十分を共に過ごす方がより満たされる気がしてそれじゃあ足らないと、意地悪そうに微笑んだ。