昨日の晴天が嘘のように、今日、金曜日の空は梵天である。外出する気持ちまで無きものにしてしまう程の大粒の雨と冷えた風が窓を叩いていた。
 思えば弥谷が姿を消した日も黒雨が愛媛の小さな街を覆いつくしていたような気がする。苗字家に息子の姿を見ていないかと彼の母親が尋ねてきた日の様子を、名前は今でも色濃く覚えているのだ。降り頻る雨すら気にも止めずに、息子の名前を呼び続けた彼女を名前の母親は玄関先で抱き締めていた。私も弥谷くんを探しに行きたい、口では言えたものの愛媛中の子供が人攫いにあっていた時期だ、後にサッカーの上手な子供ばかりだったと分かったとはいえ、子供を外に出さない理由には到底なりやしない。近所の大人達総出で弥谷を探しに出掛けたのを、自室の窓から向かい合わせにある彼の部屋を見ながら待つことしか出来なかった。
 待つことしか出来ない、ならば、待つことだけもしていたい。弥谷が帰宅して顔を合わせた日には、まず、おかえりなさいと言ってあげよう。出来ることを探すことで、不安を消し去りたかったのかもしれない。

 暇そうに名前の部屋で雑誌を読む弥谷は飽きもせずサッカーの記事だけに目を通している。此の部屋にあるサッカー関連の雑誌は、毎月出版される一種類のみ。何ヶ月分か溜まっているとしても、彼も購読しているから穴が開くほどに見ているだろうに。余程、サッカーが好きなのだろう。
 名前にとってのサッカーは弥谷が好きなスポーツだから観戦に困らない程度にと知識をつけているだけに過ぎないけれど、彼にとっては自分の在り方も、道さえも左右し、生活の一部になっているかけがえの無いものだった。

「弥谷くん、仲間に会いたいんだよね」

 昨晩の話題の中心であったものを、もう一度彼に問う。名前の問いに眉を下げながら弥谷は持っていた雑誌を床に置いて座りなおした。
 部屋の中心に置かれた小さな机に肘を置き、深く息をする。普段ならやわらかい声色で話しかけてくる彼女が、今の質問に限っては真剣さが伺える声を発していた。何と言うべきか、名前が俺に向かってこんな口をきいたのも珍しい。だからこそ、此方とて真剣に答えてあげなくてはいけないのに、喉元から出てくる言葉は弱弱しいものになっていた。

「そうだけど無理だろ。愛媛中から集められてて名前ぐらいしか知らないんだ」
「諦めるの?」
「どうしようもないんだよ」
「弥谷くんなら出来る方法あるのに?」
「…名前?」
「鬼瓦さんに聞いたの。私は駄目だけれど、当事者の弥谷くんなら連絡先教えられるって」

 思いもよらぬ展開に弥谷の心臓は大きく鼓動をする他無かった。鬼瓦さん、俺も良く知っている人だ。事件後から今に至るまで、事件の事情聴取他、健康状態からサッカーについての話し相手まで、何から何まで尽くしてくれる刑事さん。名前がどうして知っているのかなんて、聞くまでもないだろう。姿を消している間もお世話になっていたに違いない。弥谷が俯くのを名前は逃すはずもなく、隣に移動して腰を下ろし、机の上にある手に自分の手を重ねた。
 昨晩、鬼瓦に名前が願ったことは、弥谷が一緒にサッカーをしていた人達の連絡先を教えて欲しいというものだった。そんなもの知ってどうするのか。鬼瓦も一人の警察官だ、安易に重要な情報を渡すわけにもいかない、ましては彼女は参考人とはいえ第三者だ。せめて納得させるような理由を述べてみなさいと言ってみせたのは鬼瓦の優しさだろう。
 私の我侭です、弥谷くんがサッカーをしたいと言う、その願いを適えてあげたいんです。影山の追うことで、子供と接する機会が増えてしまった彼は、彼女の純粋な願いを聞き入れた。弥谷本人になら、教えてあげられないこともない、と。

 手を繋ぐことも、珍しくもなかったが、今の弥谷と名前は指を絡ませて手を握っている。名前の起こした行動に、弥谷はお礼を言うと共に、すぐさま鬼瓦へと連絡をとった。運がよいのか、鬼瓦はまだ事件の調べ事をする為に愛媛県内、それも近い場所に居るらしい。川の辺で会う約束を取り付けて、二人は家を出た。
 尽くされている、気にして貰っている、もっと言えば優しく手を伸ばしてくれている。名前が見せてくれる表情に、自分の為を思って出てくれただろう行動に、気持ちよさを感じるのは今回に限ってではなかった。淡い色の唇から紡がれる自分の名前が嬉しかった。弱みをみせても受け入れてくれるのが嬉しかった。触れたいと思い手を伸ばしても握り返してくれるのに、自惚れてなどいないとも言えないけれど、後に取り付けていくものだから今はいい。
 恋をしている。俺は名前がいとおしい。普段とは違う繋ぎ方をした手に理由をつけるなら、それで充分だった。