事件のあった埠頭は警察によって立ち入り禁止されているものの、真帝国学園に居た際に使っていた抜け道さえあれば侵入に困ることはない。子供ひとり通れるかどうかの狭い荷物の隙間を掻い潜れば、水辺まで歩いていくことは出来る。二人分の足跡だけが響く場所を名前と弥谷は言葉を交わさぬまま足を動かし続けた。
 弥谷が此処へ来たいと言えば名前は断る間もなく頷いて背中を追いかける。今、弥谷をひとりにしてはいけない。何故かと問われても答えのない確証に、名前は一歩後ろを歩いている。彼が思い止まったように水辺を見つめれば名前も足を止める。
 ひとりにしてはいけないのではない、自分がひとりになりたくないのかもしれない。もう二度と、彼を水の底に連れて行かれたくはなかったのだ。此の気持ちを恋慕と呼ぶかは分からないけれど、弥谷の傍を離れたくないのは確かだった。
 突如深く渦巻く不安の感情に二人の間にある空間を埋めるように早歩きをして隣に立つ。弥谷は何も言わずに周りを見渡していた。

「…不動さん」

 近くに居なければ取りこぼしてしまっただろうか細い声で、弥谷が誰かの名前を呼んだ。不動、さん。頭の中でその人の名前を繰り返した名前は弥谷の視線の先にひとりの男の人を見つけた。遠目でよくは分からないけれど、彼もまた此方を、弥谷を見ている。それだけで理解するには十分だった。
 彼もまた昨日出会った佐久間や源田のような仲間のひとりなのだろう。唯違うのは、弥谷がさん付けで名を呼んだことと、傍へと行かないこと。遠くの人と弥谷の二人の関係は、佐久間等とは違うのかもしれない。
 仲間がいることを名前に話をする弥谷は、おだやかな表情をしていた。昨日も、一昨日も、彼が苗字家を訪れたその日も。名前は弥谷の袖を引き、行ってきていいよ、と背中を押す言葉を選んだ。此処で待っているから、行ってきていいよ。

「帰ってくる?」
「ああ、帰ってくるよ」
「ならいってらっしゃい」
「うん。名前、ありがとな」

 ゆっくりと名前が手を離すと同時に弥谷は不動の元へと前に進む。振り返って確認しなくても、彼女は戻るまで其処で待っていてくれる。絶対的な安心感は何処からくるのか分からないが、背中を押してもらえたことで軽くなる足取りは本物だった。

「さっきのは彼女か?」
「違いますよ、幼馴染です」
「てっきり彼女かと思ったのによ」
「そういう不動さんこそ小鳥遊ちゃんと良い雰囲気だったじゃないですか」
「あれをいい雰囲気と言うか?俺は玩具にされてただけだろうが」

 傍に寄ることを、躊躇ったものの不動さんはあの頃と変わらず、否少しだけやわらかくなっている気がした。
 弥谷が不動に今は何をしているのかと問えば、自宅にいるだけだと答えられる。彼の学校もまた休みになっているらしい。きっと愛媛中が今もそうであり、同じように週明けには学校が始まるのだ。
 何故、近づくのをおそれたのか。弥谷にとって不動はまた、特別な存在だった。自分の実力を認め、買ってくれた。言葉遣いこそ乱暴であったが、力をつければ褒められ、負けそうになれば叱咤した。誰でもない自分に向けられた、自分の為に選ばれた言葉は心地よくて何よりも嬉しかった。彼にとっては十人の仲間のうちのひとりでしか過ぎなかったとしても、それで良かった。それ程に過ごした時間は短いとはいえ、背中を追いかける大切な存在が不動だった。
 当たり障りのない会話を繰り返していくうちに、不動は何十メートル先で待つ名前の姿を視界に捉えた。会話は聞こえていないだろうに。座り込もうが、弥谷は気づかないというのに、彼女は立ったまま弥谷の帰りを待っている。彼は彼女のことを幼馴染と言ったが、二人にはそれ以上の絆や思いがあるだろうことを、人の気持ちに敏感な不動は感じ取っていた。
 咄嗟に爆発から逃げろと叫んだあの時、何で自分は彼等のことを利用するだけだと思っていたのにも関わらず強く助けたいと思ったのか。答えはきっと、弥谷との会話の中で佐久間たちを彼が仲間と呼んだその一言にあるのかもしれない。

「なあ弥谷」
「なんですか?」
「お前、俺にひょいひょいくっ付いてきたの後悔してるか?」
「してないですよ。俺が決めたことでしたから」
「そうか」
「…ねえ不動さん」
「なんだよ」
「また皆でサッカー出来ますか?」
「さあ、どうだかな」

 どこか不動らしい答えに弥谷は小さく頭を下げて名前の元に掛け戻った。おかえりなさい弥谷くん。数日前に彼女の家に訪れた時と同じ挨拶を、渡してくれた。
 不動と会話したことで弥谷の中の気持ちの変化があったのだろう。その晩、布団に潜り込んだ弥谷は名前がまだ眠りについていないことを確認すると、ぽつりぽつりと誰にも言っていなかったことを語りだした。
 本当は自分で不動に着いていき、真帝国でサッカーをすることを決めたこと。起こした事件も後悔はしていないこと。何も知らぬ母親や父親の気持ちが、心苦しくて此処に逃げてきてしまったこと。一方的な会話だったが、名前は見えないと分かっていても何度も何度も頷いた。お話してくれてありがとう、一通り話終わった後の沈黙の過ぎに名前が伝えてきた言葉に今度こそ弥谷はこらえてくる感情を抑えられず、枕を濡らした。
 目の痛みはあるものの、軽くなった気持ちに久々に眠れるような気がした。水曜日に流した水は弥谷が重たく背負っていた感情そのものだった。