肌寒さは人恋しさと寂しさを呼び、夜の暗さは心細さを呼ぶという。
 自主練習をもう少ししていきたいらしい黄瀬と挨拶を交わし、笠松が学校を出たときには既に外は明るさを失っていた。ぽつりぽつりと灯る街灯が人通りの少なくなった住宅街の静けさを引き立てているように感じられずにいられない。
 自然と早足になりながら実家ではなく、居候させて貰っている家へと足を向けていけば、何十メートルか先のその家はカーテン越しでも分かるぐらいに明るい光が漏れ出している。既に誰かが帰宅しているのだろうかと考えずとも、部活動に加入していない人はただ、ひとりだけ。土曜日の今日、活動が盛んな部活に参加している人達の中で家にいるとしたら、名前だけなのだ。
 ふと、足を止める。誰もいない家のさみしさは両親が共働きである笠松にとって小さい頃に体験し、口に出さずとも知っている感情だった。中学生になり帰宅が遅くなることで、母よりも先に家に帰らなくなり自分にとっては疎遠になったそのさみしさに、いま彼女は襲われている。
 普段は笑い声の絶えない家で、笑顔溢れる家で、さみしさという感情が無縁そうなあの家の中で。
 ゆらり動く人影ひとつ。部屋でなく、人の集まるリビングで揺れている。
 衝動的に走り出す。何かを思い浮かべることも、感情ひとつも浮かばぬままただ、出来るだけ早く足を動かして家へ向かった。運動することになれた身体は高が知れた距離で息切れを見せる。流れるように押せたインターフォンで我に返るまで、笠松の頭は白いままだった。

「おかえりなさい、笠松先輩!きーちゃんから先に先輩が帰るってメールきてましたよー」
「そうか、遅くなって悪かった。…ただいま、名字。いま帰った」

 人を嬉しそうに出迎える姿は彼女の人懐っこさが故かと思っていたが、そこには隠されたさみしさや人恋しさがあるのではないだろうか。夕飯の準備をしていたのだろう、エプロンを身に着けた名前は玄関で動きを見せないか笠松に対し、首を傾げている。
 分からないのだ、彼女にそれを問いてもいいのかを。同じことを共に生活する誰かが思いながらも、暗黙の了解として口を結んではいるのかもしれない。気を使うことを、ましてやバスケをする時間を割いてまで自分の為に早い帰りを望まないだろうことを分かった上での握りこぶしを、誰かが握ってはいないだろうか。
 繰り返される自分への問いが脳内を巡る。考え事をしているのは一目瞭然だからか、名前は何も言わずに笠松を待っていた。キッチンからタイマーが呼ぶ音がしても、笠松が自分のエプロンの裾を掴んでいる限りは動かない。彼自身、握ってしまっていることにどうやら気づいていなさそうでもあるから。

「とりあえず中入りましょう?外寒かったですよね、お茶淹れますから」
「…ああ、その、悪かった。裾握ってたか」

 二人の布と手がゆっくりと離れた。踵を返しキッチンへ向かう名前の背中に自分の幼き頃を重ねながら家の中へと入る。
 当たり前といえば、当たり前なのかもしれない。この家は大勢が住むように、ルームシェアが出来るようにもとより設計された家なのだ。広く感じて当然だというのに、動き回る人の多さや絶えぬ笑い声などから広さを感じさせないだけに過ぎなかった。
 では、今はどうだろうか。自分と彼女しかいない場所は、狭く感じるだろうか。
 答えが分かりきっている問いは此処では意味のないものになる。居間のソファーに腰を下ろした笠松は確かな部屋の大きさだけでなく、目の前にある扉の閉められた彼女の部屋から見出せるものに、気づかれないように息を吐いた。
 自室でないこの人が集まる居間に明かりを点けているその理由を、考えずにいられなかったのだ。

「珈琲で良かったですか?」
「わざわざ済まねえな。どっちがお前のだ?」
「白のマグカップが笠松先輩ので、私のが赤いやつです」

 お盆に乗せられて運ばれてきたマグカップは二つ。少し間を空けて隣に腰掛けた名前の分もあった。最近のお気に入りだという珈琲豆の話や、マグカップは桐皇の桃井と色違いなのだという話をしているときも、彼女はひと時も笑みを絶やさない。その姿が更に笠松の感情を揺さぶり、切り出すか否か悩ませた問いを音として吐かせることになるなど考えもしなかっただろう。
 話題を変える時にひとくち珈琲を飲み、ほっと息を吐き、手にしていたコップが机の上に置かれるのを見計らい笠松は自らの意思で口を開くことで、この場の空気を変えさせた。

「一つ、聞いてもいいか」

 真剣さは声色と表情で見て取れる。笠松の視線は名前を捕らえる事無く、真っ直ぐと前を向いているが、視界に入る瞳は迷いなきものだった。何を問われるかは分からない。それでも首を縦に振る彼女に短く礼を言った彼の声からは、やさしささえ滲んでいた。

「寂しくないのか」

 たったその一言で、笠松が何を伝えようとしているかが分かってしまった名前の瞳は彼と違い揺らいでしまう。後に続く言葉も前に隠された言葉も無理やり想像するまでも、確かめるまでもない。
 彼奴等がいない家は、寂しくないのか。たった一人で、この家で待っていて。
 自分の中に渦巻く感情に一番近い言葉を探す為に名前はマグカップを手にする。笠松は彼女が時間を欲していることを分かり、それ以上は口にせずにただ、待った。
何口か飲み物を飲んで、染み渡るあたたかさに息を吐いて。感情を、言葉を整理して。言葉を紡ぐ。

「寂しくないと言えば、嘘になっちゃいます。でもこれは分かっていたことなんです。分かった上で黒子くんたちとルームシェアを決めて、私は此処に居る。黒子くんたちもそうさせることを分かった上で、選んで決めた。だから寂しいだなんて、言わないんですよ。言わせないように彼等がしてくれているのも知ってるから」

 練習が終わればなるべく寄り道せずに家に帰ろうとしてくれていることも、一本早い電車に乗れると分かりホームを駆け上がっている彼等がいることも。知っているのにさみしいって言うのは、ただの我侭になってしまう。部活に加入しないことを決めたのも自分なのだから。
 問われたときには動揺を見せたものの、答えを笠松に返すときの名前の声は震えることなく彼の耳に届いた。自分に出来る精一杯の行動で黄瀬を褒めたときのように背中を叩いてあげるのは、決して慰めではない。頑張ってるな、なんて同情ではない。己も知るさみしさを、感謝へと変えられる名前の姿への称賛だった。甘やかすべき人物は自分ではない。もし彼女のさみしさを吐き出させ泣かせてやるとしたら、彼等のうち誰かになるのだろうから。
 それでも、笠松は名前から建前も決意も吐き出させたのだ。寂しい、だけれどもと続く言葉を誰にも言ったことはなかった彼女の口からの本音を引き出してあげられた。本人が思っているよりも、ずっと、笠松は名前を甘やかしてあげられている。

「多分、あと少しで青峰が帰ってくると思うんです。夕飯何だってメール、来てたから」
「そうか。黄瀬もそんなに遅くはならないと思う」
「…でももう一杯だけ、珈琲飲みませんか?」
「言葉に甘えるとするよ。外は寒かったから、お茶も恋しいしな」

 笑って、名前は立ち上がる。もう一度此処に戻ってきたときに彼女はまた他愛無い話を取り上げることだろう。今度は笠松も話を流す事無く返し、切り出すのはバスケの話題になる。ただ変わらないのは、二人は同じ位置に腰掛けて、彼もまた適当に背中を叩いてやることだろう。
 立ち上がった時に、笠松先輩はまるでお兄ちゃんみたいですと零したその言葉に含まれる感情を汲み取って甘やかしてあげる為に。