翌日、笠松が重たい眼を開けるよりも早く、どこからか朝食のものであろう香りが漂ってきていた。思考がはっきりしないまでも視界に広がる見慣れない部屋の風景に、振り返ればベッドに包まる見慣れた後輩のものであろう丸まった身体。朝日が入る窓へ視線をやれば、これまた自室とは違う景色が広がっている。数分を掛けて状況を飲み込んだところで深く、大きな息を吐く。黄瀬に連れられて笠松がこの家で迎える初めての朝だった。
 準備した目覚ましよりも先に目覚めて、今は確かな足取りで部屋を後にして階段を下る。まるで修学旅行の夜のように騒いだ昨夜の夜更かしが影響したのか、人の気配がしても黄瀬は起きる気配を見せなかった。或いは、この家は彼にとって安心出来る場所なのかもしれない。合宿をしても一人夜遅くまで起きていた人と同一人物だとは思いにくいものだ。
 他の者を起こさないように静かな足運びで居間まで歩いて行く。階段を下り、左手に見える玄関に背を向けて廊下を進んで見える扉を開ければ昨日通されたリビングであり、右手側の洋室が名前の自室。目をやれば同年代の女子の部屋ということを意識してしまいそうなので直ぐさま此方も背を向ける。数歩進めばソファーと小さな机、左手側に食卓机と奥にキッチン。いい匂いは此処からだ。

「あ、おはよう、です。笠松さん」
「火神か。おはよう、朝食の準備か?」
「まあ、そうっす。先輩起きるの早いっすね」
「なんか目が覚めてな。あの部屋の間取り、朝日入りやすいんだな」
「それでも黄瀬は起きるの遅いんすよ」

 機会が無ければ見ることもなかっただろう火神のエプロン姿に苦笑しつつ笠松が手伝いを申し出れば、助かりますと火神も苦笑いで返す。
 トーストにサラダとスープ。火神の手に掛かれば早く終わるものだが、一緒に何かやることに意味がある。笠松がサラダの野菜を切ったり、皿を出したりとゆっくりと二人の間にも会話が生まれたところで、扉の開く音がする。緑間の起床だ。当たり障り無い会話を交わし、新聞を取りにいく緑間の背中はどこかの一家の主のようにすら見えてしまう。この家の中での役割が朝から見つけられるようで面白い。

「あー、火神、その名字は?」
「アイツは先輩より先に起きて今は部屋で支度してるっすよ」
「そうだったか…」

 ふと笠松が視線を名前の部屋がある方向へ移すや否や、先程とは違う音で扉が開く。既に着替えも済ませた名前がリビングへとやってきた。同時刻に一度二階の自室に戻っていたらしい緑間もリビングへ戻ってくる。時刻は全員がこの家を後にするまで一時間くらい時間がある。とはいえ、慌しくなってしまうのがこの家のいつものこと、だ。火神もそれを分かってか、少し急ぎ足でご飯を食卓へ並べていく。

「おはよ、名前。もう朝食出来てっぞ」
「はーい。笠松先輩、おはようございます」
「おう。黄瀬たちまだ起きてきてないけどいいのか?」
「よくないので起こしてきます!」

 朝食に空き腹が刺激されるのを横目に名前は新聞を読む緑間に挨拶をして、急ぎ足でリビングを後にする。二階から大声が聞こえる辺り、誰かしらの寝起きが悪いのだろうことは笠松も予想が出来る。大方青峰だろうと、気にしないのが緑間であり、準備が出来たので後片付けもし始めるのが火神である。
 眠たそうに目を擦りながら起きてきたのが黄瀬と黒子だ。挨拶もそこそこに顔を洗って食卓に着く。遅れること数分後に青峰の服を引っ張って降りてきた名前と、全員が食卓を囲み挨拶をして漸く朝ご飯にありつける。朝から騒がしいことこの上ない。
 朝食を済ませれば各自急いで自分の支度だ。今日は早く準備したからもう出られるのだと、当番の火神の隣に名前が並んで後片付けをしていく。笠松は扉の開いたリビングの上階から、あれがないこれがないと騒ぐ黄瀬の声を左から右へ流しながら、彼女たちを視界に入れてお茶を啜る。時間があるのは笠松と緑間くらいだ。
 漸く全員の身支度も整い、誰の帰りが早いだ、夕飯は何を食べたいだ、弁当には何を入れたのだと会話をしながら家を後にする。当たり前になった、いってきますの挨拶をして家を出る直前にほら、笠松先輩も、と嬉しそうに名前が笑うので、照れくさそうに小さな声で笠松は挨拶を残して家に背を向けた
 途中で道は別れ、更に電車を使うと神奈川に学校がある二人は自然と二人きりになる。そういえば偶然合流してしまうことはあっても、電車に乗り学校までの道なりを二人だけで歩くのは黄瀬と笠松にとって初めてだった。

「大勢の朝ってのも悪くないな」
「これで名前っちが起きるの遅い日とか、朝食当番や弁当当番が寝坊した日とかはもっと騒がしいんすよ」
「この一週間にそんな日が来ねえのを祈っとく」
「でも先輩は満更でもなさそうっすけど?」
「うるせえ、さっさと行くぞ」

 悪くはない。朝から会話の絶えない家と笑い声が満ちた空気は新鮮であり、また楽しくもあったのだから。それでも肯定するのは気恥ずかしさもあり、隣で頬を緩ます黄瀬の腰に一発の蹴りをいれて、蹲る後輩を背に笠松は歩き出す。鞄の中にある、普段は学食で済ませるはずの昼食の代わりに入っている弁当箱に、緩みそうになる頬を隠すように口元に手をやりながら。