「ちょっと不動、部屋の匂いが甘い」

 五月蝿く耳を刺激して身体の目覚めを催促するベッドの上の箱を壊して止める。良い音が破壊の衝動の大きさを物語っていたが、万が一壊れてしまったとしても、買え代えるのも彼がやってくれるだろう。そんな甘えた考えからか視界からの疎外を決め込んで朝の空気を吸い込んだ。
 同居を始めてから早二ヶ月が経った。彼との生活は幸せであるが反面、私の女の子としての何かを崩していっているような気がしてしまう。
 満足を覚えた二つの肺は更に酸素の補給を訴えるが、残念ながら胃袋はそれどころでは無い。起床を促した時計の音と張り合える程にお腹は欲求不満だった。
 寝室から飛び出した身体はまず初めに甘い匂いを敏感に感じとる。今では当たり前となった彼が準備してくれる朝御飯の匂い。きっとフレンチトーストでも焼いてくれてるのだろう。

「おはよ名前」
「んー、もうご飯出来た?」
「まだだから顔でも洗ってこいよ」

 お言葉に甘えて。名残惜しい甘さに期待を膨らませて重たい足をずるずると引きずりながら洗面所へ向かった。何時かの青春時代を羨ましく思う程に蓄積した疲労を剥がし落とすかのように、水で顔を覆うが冷たくてお湯に切り返す。水遊びをしていた私は記憶の断片に消え去ったらしい。昔の娯楽は今の天敵だなんて情けなくて笑えないね。
 身支度を整えるうちに不動の声に手招きされて食用に負けた私は無造作のまま放置されてしまう。ごめん、髪の毛。優先順位は間違ってはいないのだと心中で謝っておくことにしよう。

「まだ目が開いてねぇじゃんかよ」
「昨日が深夜帰宅だったから寝不足」
「なら早く食べて仮眠とるか?」

 並べられた朝飯とは呼ぶに失礼な程の豪華な料理だった。私の仕事が忙しいが故に身に付いた技術に器用さも感じながら感心せざる負えないし、流石に私より上手いのには女として嫉妬さえ覚えるよ。
 彼の甘やかし上手は時に痛手。お陰で同居生活を始めてからは家事も任せっぱなしで残念な事に珈琲一つ、彼より上手く淹れられない。ただ唯一勝ち誇れるものが存在すると云えるなら玉子焼きぐらい。家庭の味や母親を思い浮かべる品の一つとして上げられる其れならば彼の舌に合うものが作って上げられる。決まって食卓には私の玉子焼きが並ぶようになった。
 眠たい朝も椅子に腰を深く掛けるよりも喉に何かを与えるよりも先に調理だけは行う。全て揃う食卓を二人で囲う日常が当たり前になって、出勤前には不動にいってきますを告げる。労ってあげたい身体も帰宅後の彼のおかえりの一言で疲労の半減が出来るだなんて幸せもいいところだ。不動が居てくれるなら上司の下らない自慢話も新人の世話も流せ物にすらなる。
 帰る場所が在るのは安楽でならない。

「忘れ物は無えか?」
「子供じゃないって」
「そ、じゃあいってこい」

 玄関から足を踏み出す。日光が眩しくて目を閉じれば残像として不動の姿が視える。出勤前の接吻も今は数限りない行為になってしまったけれど、床を共にする機会も出逢った頃に比べれば無いに等しいとしても、私は彼にただいまを言う為に戻ってきたい。