一日の大半を陽の下で過ごしながらも白い肌と綺麗な指先で嬉しそうに私の頬を撫でる不動が嫌いだった。嫌がれば嫌がる程わざとらしく耳元で名前を呼び、くすぐったいと顔を背ければ幸せそうに笑うのだ。
 不動なんて、不動なんて。
 優しくされるのが辛い私は面と向かって嫌いと言ってやりたかったのに彼はやわらかい笑みを浮かべたまま大丈夫だと背中をさすってくる。
 何が大丈夫よ、ばか。言わなくても分かってるというならその手を離して私が嫌いだと叫べるような態度をとってからいなくなって欲しい。
 高校を卒業したら日本を出てサッカーボール片手に世界中でプレイをする、そう宣言するくらいならさっさと別れてくれるばいいのに。待っていろとも別れろとも言われないまま曖昧な月日を、不動を好きなまま過ごす私の気持ちを考えてよ、ばか。

 結局彼が私に置いていったものは触れられ慣れた身体と引き取られたアパートの合い鍵、愛用していた古くなったシューズと幾度となく私が秋ちゃんや春奈たちと洗濯した中学生時代のユニフォーム。
 そして自分の名前だけ綺麗な字で記入された婚姻届だった。
 どれもこれも私が日常生活で使用出来るものではなかったのでわざとダンボール箱に詰めておいてある。
 ただ婚姻届だけはしまい込んだまま字が薄くなってしまったとして泣くのはどうせ私なのだから、これ保存しといて、なんて手元に置いておくのもプライドの問題で許せずに鬼道くんに預けておいてある。不動が取りにこなかったら鬼道くんが墓まで連れていってね。頬を膨らませた私が取り付けた約束に彼はその心配はないだろうと笑うのだから私はまた泣きたくなり、口癖になった言葉を吐いた。
 不動のばか。

 円堂くんと夏未の結婚式も春奈の就職祝いでさえ帰えってこない不動だったけれど、毎月絵はがきはご丁寧に送ってきてくれるので今どこでサッカーしているかだけは確かに分かることが出来る。
 私は二十四歳になった。


「帰ってきたのがまさか日本のサッカーの為だもんね、流石の私でさえサッカーと結婚すれば?って言いたくなったよ」
「色々忙しかったんだっての」
「私に会うより先に冬っぺには会いに行く暇はあったみたいだけどねー」
「お前!それ誰に聞いた!」
「ああ悪い不動。俺が喋った」
「…ちょっと風丸くん意地が悪いんじゃねぇの?」
「俺は苗字の味方だからな」
「やだ風丸くん格好いい!」

「君達盛り上がってるのもいいけどサッカー見なくていいのかな?」

 クスクスと笑うヒロトくんと緑川くんの視線が大人気ない私達からフィールドの中へと向けられる。
 今を頑張るこども達が自分達の為にサッカーを取り戻そうとしている。ベンチには監督の円堂くんにコーチの鬼道くん。ユニフォームに袖を通すのはかつての私達の雷門魂を引き継いで自分のものとした後輩たち。
 試合終了のコールと共に見上げた空はとても綺麗で、それでも当たり前のように私の腰に手を回す不動には腹が立つのでいつだって私はこの言葉を吐くんだ。
 不動のばか、ってね。


「それじゃあ大人組は鬼道くんの家で祝賀会になるんだね」
「お前も来るんだろ?」
「鬼道くんから直々に誘われましたから」
「ふーん、妬けるねえ」
「…そうやって腰に手回すと間違えてガードレールに車ぶつけちゃうかも」
「…ふざけんなよ名前ちゃん、怪我したらサッカー出来なくなるだろうが」
「不動からそんな台詞が聞けるなんて数年前は思わなかったなー」

 赤い車を運転するヒロトくんに風丸くん達をお願いし、私は不動を乗せて鬼道くんの家に向かっている。
 私も車を運転出来るようになったということは、それだけ誰かさんに放っておかれたということにもなるのにな。
 会話が途切れた途端に窓の外ばかり見てる不動は、今向かう先に婚姻届があることを知っているだろうか。あざとい誰かさんのことだから伝えていそうだな。
 鬼道邸に着き、指示された場所に車を停める。簡単に身支度を整えて口紅を塗り直していればやけに熱っぽい視線で不動が此方を見ていた。

「なに、どうかした?」
「口紅付けんだなって思ってよ」
「…もう二十四歳になっちゃったからね」
「ふーん、こどもじゃなくなっちゃったんだな名前ちゃんも」
「誰かさんが顔見せないうちにね」

 可愛くない言葉を幾ら返そうと熱っぽい視線は此方を捉えて離さない。食われる、そう思った時にはべろりと口紅は舐めとられ下唇は吸われ服の間に手をいれてきた。
 やだなあ、泣きそう。
 私まだおかえりも言ってないしまだただいまとか待たせたとも言われてないのに。好きだって指先が舌が視線が訴えてくるから悔しくて仕方がない。ゆっくりと離れていく唇。もう一度同じ手間を繰り返さないと鬼道くんの家に入れなさそうだ。

「鬼道くんから聞いた。あん時の婚姻届、此処に預けたんだってな」
「だっていつ帰ってくるか分からないのに紙が悪くなって文字とか消えちゃうかもしれないって思ったんだもん」
「鬼道くんなら厳重に保管してくれるってか?」
「…それに手元に置いておいたら不動のこと嫌でも考えなきゃいけないと思うと腹が立って」
「そこは淋しい、の間違いだろ?かわいいねえ名前ちゃんは」

 助手席を降りた不動はわざわざ運転席まで足を運び扉を開けてくれる。
 口紅を塗り服を整えて差し出された手をとって鬼道くんの家まで歩きだした。歩幅を合わせるようなこと、高校生の時は出来なかったくせにヨーロッパで随分と紳士に育ったもんだ。

「大分金も貯まったからこれからどれだけふらふらしようとお前連れ回すぐらい出来るようになったわけだ」
「金持ちだねサッカー選手」
「俺が特別なの。で、帰りは鬼道くんに預けたもの貰って数日後には日本でるからな」
「そういう俺様なとこも変わらない」
「ばーか、お前にだけだっての。で、返事は?」
「…秋ちゃんに会ってからがいいな」
「へいへい」
「それに私、豪炎寺くんのとこで働いていたから会社なくなっちゃったから」
「へー、そりゃあ都合いいじゃねーの」

 豪勢な扉の中、広間へお進みくださいとのお手伝いさんの言葉の通りに進む。
 泣きそうなのはもうやめておいて、会場についたら思う存分お酒を呑んで豪炎寺くんと虎丸くんとお疲れ様と笑って、鬼道くんにご迷惑おかけしましたとお礼を言ってそして。
 酔った勢いを借りて不動におかえりって伝えてから私は会場にいる女の子達に泣きついてやる。漸く私も胸を張って幸せなんだって笑えるんだ。
 ああでもお酒呑んだら車運転出来ないから、不動に呑まないようにお願いしよう。どうせまたそこで可愛くない態度とってからかわれるだろうから、私は再びこの言葉を投げつけてやろう。

 不動のばか。
 それでも好きだけどね。