名前が彼に大好きだよと言えば、嫌いでは無いと返されて。愛してるんだよと告げれば、其の言葉は俺にでは無いだろうと返される。それでもまだ彼の隣から降りようとしない名前と、彼女の想いに気付いてながらも隣を降ろさずに利用する彼のどちらが罪深いだろう。其の答えは無い。あったとしてもきっと、二人では探しだすことは出来ないだろう。曖昧な此の距離に苛立ちと安心を覚えるのも彼女一人だったとしても。
 そして名前が嘘でも別れよう、そう告げれば、俺にはお前だけだと滅多に見せない笑みを浮かべるとは何て醜い人なんだ。
 お互い様なんだけれどね、名前は隣に座る不動へと、そして自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「もう、いい加減にしなきゃよね」
「分かってんなら別れればいいだろうが」
「それが出来てたら苦労しないよ」

 静かな部屋に意図的な溜め息が響いた。他にあるのは有名店の珈琲が並々に注がれている彼女の恋人である鬼道とのお揃いのマグカップ、其れがスプーンと重なりあう音だけ。静寂なる部屋は溜息が響くように良く通る、其れが嫌で名前は意図的に珈琲を掻き混ぜた。
 お客様用のマグカップに口を付けた不動は慣れない味に下を慣らす。共にフィールドを駆けていた時の彼女からは想像も出来ない深みのある味だった。部屋を見渡せば数えられる程度であるものの、彼女の部屋には恋人とのお揃いの品と思われる物と、彼が此方に来た時に使うのであろう日用品の数々が見受けられる。恋人の趣味や立場を考えて選んだであろう、不動でも知る有名ブランド品を横目に、お前には似合わねえ部屋だと漏らせば当の本人は困ったように笑うだけで余計に不動は苛立ちを覚えたに過ぎなかった。
 休日の昼下がり、恋人同士なら出掛けたくなるようなあたたかな陽が指す日に、名前は名前との予定も無く、突然訪れてきた旧友を部屋に上げていた。

「そういや、何で鬼道くんと付き合ってんだ?」
「本来は違う人の婚約者だったらしいんだけどね」
「金持ちも大変なこった」
「不自由ない幸せな生活送ってきたから文句は言えないよ」
「結婚相手も交際相手も選べないのが幸せってか」

 不動の嫌味に何も返せぬまま、名前は昔話をし始めた。
 気づいたらいた許婚もね、小さい頃から触れ合っていれば自然と好意を持つようにもなるの。大好きだったな、幾つも年上のお兄ちゃんみたいな人だったの。同じ年なんだけれどね。
 陶器が触れ合う音がする。不動は相槌も打たずに、ただ彼女の話に耳を傾けながら、決して自分は好んで飲まないだろう味の違いも分からない珈琲に口をつけていた。
 名前は話を続ける。その大好きな人が私の前から居なくなった時、無くなった穴に土足で甘さをもって近づいてきた鬼道さんに慰められているうちに離れられなくなったという情けないお話だよ。此の世界なら、政略結婚の名前通り、何かあれば結婚相手だって変わるのも不思議じゃないんだけどね。鬼道さんが意図的にそうしたのか、あの人が他の相手を決めたのかまでは分からないけれど、どちらにしたって拒否権なかったのよ、未成年だったどころか、小学生ぐらいだったしね。
 身の上話を当たり前のように白いソファーの上、隣に座る不動に話をしたら彼は大きな手で頭を撫でてきた。慰められてるのかな、そんな風に考えたら涙が出そうな気がするよ。だって鬼道さんはこんな風に私に触れてはくれないから。
 云わば私と彼の関係は此の珈琲と砂糖のようなもの。

「お前、本当に彼奴を好きか?」
「あの人と鬼道さんに抱く感情は違うかな」
「じゃあやっぱり別れろ」
「でも鬼道さんは好きだよ」

 困ったように笑う彼女の身体を引き自分の胸へと抱き寄せる。ビクリ、震える肩からは抱き締められるのは初めてなのかもしれないと窺える。鬼道くんも名前もどっちつかずな薄っぺらい恋愛関係の何にしがみついてんだよ。初恋の人の面影を鬼道に求める名前と、それを心地好く感じてる鬼道の関係は不動からみたらごっこ遊びにしか見えなかった。何故好き、彼は彼女に利己的な感情でも抱いているとでもいうのだろうか。彼女は自分の亡き恋人とは別の人間であっても容姿や仕草が似ている故に執着してしまうのが人間か。
 仮定の話だが、鬼道は彼女の幼き頃に膨れ上がった恋心を知った上で意図的に、似せた行動を起こしていたとしよう。同い年でも年上らしく振舞ったりするように。特別に甘やかされていたわけでもないなら、自分もある程度は距離を持って接してみようと考えてでもいるのだろうか。彼女から聞く鬼道の姿と、自分の知る鬼道の姿とでは相違点が多々見られるからこそ、不動はそうも考える。
 それだとしても、制服に着られていたような時から淡い恋心を抱いている相手が、決して幸せとは見えない位置に立っているとするならば、例え相手が親友であっだとしても、不動は黙っていようとは思えなかった。

「なら俺の女にならねえか」
「無理だよ、鬼道くんから離れたくないから」
「別に金輪際の離別はする必要ねえだろ」
「じゃあ、鬼道さんの彼女止めたくない」

 何だかんだ言って私は鬼道さんの隣を離れるのは嫌で、離れようと試みても彼の隣に自分以外の女性がいると思うと気が気じゃ無いのも事実なのだ。此れを愛と呼べるかは分からないけど、彼女の一番は彼である事実には代わりは無い。依存だ、彼に囚われてしまったんだ。愛を囁いてくれないことに不満を持とうとも、此の関係に疑問を持とうとも、一人の大人となった今、家庭の事情に縛られる必要は無いというのに彼の隣に居ることを止めないのは彼女なのだから。

「俺は認めねえからな」
「一体、何を認めないの?」
「お前は鬼道くんじゃ幸せになれねえ、いや、俺じゃなきゃ無理なの」
「何よそれ、不動ったらおかしなこと言って」
「好きだっての分かんねえか?」

 撫でていた腕を肩に回し頬にキスを落とす。俺の方がこんなにもこいつを好きなのに、なんでこいつは俺を好きじゃねえんだ。容姿を変えれば、仕草を変えれば中身の俺に眼を向けてくれるのか。彼奴の呪縛から引き離せる?過去で無く生きる幸せを与えてやりたい。名前が静寂を嫌い起こしていた動きも、二人の会話すら無くなった部屋は静まった。

「俺がお前を幸せにしてやる」
「あたしは鬼道さんの恋人だよ」
「気にすんな、明日からは俺の女だ」
「勝手なこと言わないで。それを言うなら、今は不動の恋人じゃない」
「明日には俺に惚れさせてやるから気にすんな」

 だから私は鬼道さんの彼女で、そう自分以外の名前を発する彼女の唇に彼奴以外の唇を押し付けてしまえと不動は接吻を繰り返した。最初のうちは抵抗をみせた名前だったが、抱きとめられたまま離してくれようとしない腕に、男の人には抵抗出来ないのだと理由をつけて暴れるのを止めた。
 忘れられない初恋の人への愛情も、彼奴に対しての執着心も全て全て今の俺への恋に変えることが出来るなら。こいつが笑えるような気がして。でもそんな綺麗事よりも俺がお前を欲しい、それだけだというのに。不動の一人気持ちのみ貪る唇は震えていた。

だってあの頃は君が好きだった


 重ねられた唇から不動が視える気がして名前は目を閉じた。それでもまだ私の中では鬼道さんが一番であって、あの人が居て。抵抗しないことに、求める愛情が不動を利用しているそのもので、罪悪感に襲われた。どうしたら鬼道さんも私も、不動も幸せになれるんだろうね。結局のところ、私が鬼道さんを信じられないのがそもそもの始まりだったのだろう。不動以外だったら、拒めたのに、否、そもそも貴方は覚えていないでしょうけれど、初恋の人には再会できているの。敵として出会ってしまった日に、私のこと覚えていなかったようにみえたから、記憶には蓋をしたのだけれども。
 巻き込んでごめんね、唇が離れたと同時に名前が零した言葉に不動は一瞬顔を歪めながらも、意味深そうに共犯者だと笑ってみせた。


t./告別