短編 鬼 | ナノ

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叶うのならば、そのまた明日も。

ぽちゃん、ぽつんと、軒先やら草葉に溜まった雨が丸いしずくとなって落ちる音が響いていた。
そのうち雲間から差してきた光が目に痛いくらいだった。

光が乱反射するさまに、俺は顔を顰めようとしていた。
だがそれは、目の前の女が許さなかった。
厳密には違う。
俺が目をカッ開き、息を止めていた。
それだけの事だった。

庭の、アチラコチラに点在する水溜りに切り取られた空には、まだ分厚い雲がかかっている。
恐らく、また明日にも降り出すのだろう。
雨の季節だもの。何ら不思議なことでない。
寧ろ、今晴れ間であることが珍しいと言っても過言ではないのかも知れない。
とにかく、その、水溜りの群生する庭。
俺の直ぐ側で、傘を取り落とした女の顔を、今日、俺は初めて目にしていた。
走って、俺から遠ざかりながらも、口角を上げるさまを見ていた。

その時、俺は暫く動くことができなかった。
別に、幽霊の姿が見えたことがどう、とか。そういうことでは無かった。
玄弥じゃ無かった・・・・・・・・。わかっていた。
解っていたことだが、それでも、思わず息を飲んでいた。と、思う。

「……っ、オイ」

そう呼びかけて、俺は後を追った。
追ってどうする?
何を言う。何を聞く。何をする。
何も浮かびはしなかったが、それでも、何かを言ってやらねば気が済まない。
何かを伝えなければ、気が済まない。

門から出ていこうとしている背中に、また呼びかけて、その手を掴んだ。
掴んだ筈であった。
俺の手は、女の手をすり抜け、挙げ句虚しく空を切る。
門の向こうへと消えた・・・女とは、もう二度と会うことは無いだろう。
どこかで漠然と思った。
成仏した、だとか、そういう事なのかも知れない。
それなら、それはそれで良いのだろう。



何かをしてくれた、だとか、渡された手紙だとか。
そんな事はどうでも良かった。

玄弥を亡くし、ついぞ生き残てしまった俺は、なにをどうすれば良いのか。何をどうしたいのかなど、皆目検討もつかず、ただダラダラと余生を過ごすことも虚しく考えていたのだ。
いや、訂正する。
なにも考えてなどはいなかった。
どっかで、じき死ぬのだから、それまでにやり残しの無いよう、できる事はしておくか、と。
その程度だ。
だから屋敷を片付け始めた。
その程度だったのだ。
それだけしか無かった。

毎日体が重かった。
遺された人間として、何をすべきかなどわからなかった。
毎日夜が、怖かった。
夜の過ごし方とて、もう覚えていないのだ。
毎日味のしない飯が苦痛だった。
もう、食うこともやめてしまいたかった。
毎日指折り数えていた。
すぐその瞬間でも、良かったのだ。
時折、見張りかのように来る宇髄も、いっそうざったく思っていた。

それがどうだ。
玄弥の遺書を、手にしたその日。
あの日から、恐らく、全ては変わっていた。

「派手に顔色が良くなった」

宇髄が、そう言ってのけるほどには、俺も元気になっちまったんだろうよ。
全ては、あの日からだった。


輝利哉様から渡された玄弥の遺書を、すぐに読むと言うことは出来なかった。
受け取った俺を見て「直ぐでなくとも構いません、いつか時がきっと来ます」そう言った声すら、確りとは覚えてもない。


誰か別のナニかがいる空気は気味が悪かった。
キシキシと人知れず鳴く床には鳥肌を覚えた。
意味がわからない時宜に吹く、どこか生ぬるく細い風には、心底体が冷えた。
勝手に開きやがる扉の底気味の悪さはもう慣れた。
穴のあく障子は、途中から張替えの面倒さを考えていた。
縁側でぼうっとすると、必ずそばにくる気配があった。
うたた寝をしちまうと、かけられていた羽織が擽ったかった。
飯の味がした。
茶が温かかった。
隣で傾く湯呑には、一息つけた。
洗濯物が浮いているのは、やっぱ気味が悪い。
それでも、装われた飯がうまかった。

ただ、どうしても拭いきれないものが日に日に心にでっかい穴を開けていっていた。

俺が、こんなだからコイツはここに居るんじゃねえか。
俺がコイツを、玄弥・・をここに縛り付けてんじゃねえか。
そう思うと、とっとと踏ん切りをつけてやらねぇと。

どこかでそう焦っていた。
だから簡単なことにも気付くのが遅れてた。

玄弥じゃ無い。

洗濯を伸ばしている位置も、茶碗の渡される高さも、湯呑を運んでいる盆の高さも、俺の知るものではない。
幼少の頃の玄弥にしては、高すぎる。
今の・・玄弥にしては、低すぎる。
玄弥じゃねぇ・・・・・・
そう理解できたときには、ホッとした。
玄弥には、もうあれ以上苦しんでほしくない。
あれ以上、なにかに悩むことも囚われることも無くていい。
アイツは一生分頑張ってた。
死んでまで居てほしいだなどと、望んではいない。
もし、もし出来るのなら、弟妹と向こうで笑っていれば良い。
癇癪を存分に起こして、俺を罵りながら「どうしようもねぇな!」と笑ってりゃいい。怒っててもいい。泣いててもいい。
辛くなけりゃ、そんで良い。
そう思ってた。
そのくせ、俺が気付いている事をわかっていても、側にある気配に、俺は無性に安心してた。
ずっと側にあったからか、存分に弱味を見せていたからか。
もう今となってはわかりはしないが、一人では無いと、錯覚できていた。
違う。
一人に、ならなかった。
さんざん読めと主張されるのは、言われるのは癪に触ったが、解っていた。

玄弥は俺を追って鬼殺隊へと入ったのだ。
身内はもう俺しか無かった。
なら、この遺書とて、俺だけに向けられたものであるはずだ。
俺に向けて、なにかが書かれたものだ。
わかっているのだ、わかっていたのだ。そんな事は。
強情にも読めなかったのは、ただ弱かったからだ。
目の前で消えた弟の、死を乗り越えるのが。
怖かったのだ。

ずっとそれに縛られていたかった。
玄弥の死を言い訳に、悲しみに暮れる方が何も考えずに居られたからだ。
結局のところ、こんなになっても玄弥の気持ちを汲んでやろうとも思ってなかったんだろう。
もし、
もし。
玄弥を認めてやっていたら、変わったんだろうか。
いや、変わらねぇ。
アイツは俺を追ったろう。
それでも、鬼を食わずには済んだのかもしれない。
脚でも切ってしまっていれば、変わったろうか。
恨まれたろう。
それでも良い。
生きてさえいれば、先はあったのだ。
なら、そうすれば良かったのだ。
足でも切って、戦えない体にして。
むしろあのまま目を潰してしまってても良かったのだ。
本当にあの日それが出来なかったか?
違う。そうじゃねぇ。
終わっちまった事だ。
何をどう考えたところで、戻っては来ないのだ。

別に、得体のしれない姿すら見せないヤツが書いた手紙が理由だと言うことではない。
いい加減、自分にもうんざりしていたのだ。
こんな事を、いつまでもグチグチと考えているのも、ウダウダと好き勝手言わせるのも性に合わない。
ただそんだけだ。

遺書

その文字を数度、指でなぞった。
決して褒められた綺麗な文字などではない。
シワのたっぷりと刻み込まれた用紙に書かれた、馬鹿みたいに太い字に、笑っちまいそうになった。

皺を伸ばすように開き、何度か深く息を吸った。
何度か瞬いた。
何度か、目を瞑った。

玄弥からの手紙の切り取る一つ一つの風景が、つい昨日の事のようだった。
遠い遠い、昨日のことだ。
やっと、夜が明けた。
直ぐ側にある気配には、どうにも今日は素直になれそうにもなかった。
さんざん弱みを見せた。
さんざん罵った。
せっつかれてもいた。が、今日は駄目だ。

庭へと足を踏み出すと、雨が着物を暗色に染めていって、全部を流していってくれそうだった。
そんな事はない。
流さなくてもいい。
ただそこに、あれば良かった。





門前に見える水溜りを目の前にしゃがみこんだ俺は、そこに切ら取られた青々と晴れ渡る空を見ていた。
湿気った空気は変わらず、べったりと纏わりついてくる。
パッと、着流しの裾を払ってやるとあちらこちらへと飛沫が跳ねたから、恐らくこの調子だと着替えなくてはならない。

「めんどくせぇ」

言葉通り、非常に面倒だ。
脱いだものを放って置くと臭うだろうし、干さねばならない。どこへ干そうか。
その前に、そろそろ買い出しに行かねばと考えていたと言うのに、どうしてくれよう。
そんな事を考えながら、庭先に落ちた傘からも俺は水滴を払う。
もう濡れてらァ、ボケェ。
そんな事を、胸中では吐き捨てていた。
が、それでもどこかすっきりとしていた。

明日、降ってなければ藤の家家に挨拶回りにでも行こう。
世話になった奴らは、とんと生きているヤツのほうが少なくなってしまったが、見守ってくれていた人間は山といる。
恐らく報せは行っている。
だが、俺は「ありがとう」と言えちゃいない。
まだ、誰にも。
アイツが、__玄弥が世話になったところもあるだろう。
兄貴として、すべき事は山とある。
忙しくなんなァ。
自然と、俺の口角は上がっていた。




奥多摩の山を暫く歩いていた。
ここいらには、じきにトンネルが開通するらしい。
そうすれば、この向こうへと抜けるのも容易になるのだろう。
どこからともなく聞こえる滝の落ちる音と、ケキョケキョ、ピーチクチクと鳥の囀る音。
ジィージィー、リィリィと虫の鳴き声もしている。
どこからともなく、蛙が喉を鳴らす音もする。
こんな音に耳を傾けるのは、いつぶりだろうか。
適当な川辺で、手に水を取り啜る。
透き通り、未だキンと冷たい水がひどく心地よかった。
頭に引っ掛けていた菅笠のお陰で蒸れている頭もどうにかしてやろうか。そう考えて、傘をおろして頭から顔を突っ込んでやる。
すっきりとした頭で、ぐる、とあたりを見渡す。
静かだ。
リィリィ
ジィージィー
ケキョ、ケキョ
ざぁー
音に耳を傾けるように、適当に髪を払い上げて傘を首に引っ掛けた。
脇に置いた手土産の団子を抱え直すと、すぐ向こうの小道に竹籠を抱える娘が見える。
なんら危な気なく運んではいるが、どうせ通り道。
近場まで運んででもやろうか。
少し前よりも幾分か軽い気のする腰を上げ、道でもない山肌へと足を向けた。

「すみません」
「はい」
「……は、」
「?あの、……もし?……??」

籠に山と野菜を積み上げた女は、俺の前で手をひらひらと振っている。
常なら「うぜぇ!」とでも言いながらその手をはたき落とすのだろうか。
いや、女相手にそんな事はしねぇ。
違う。
そうじゃ無い。
そんな事が、言いたいのではない。

首をコテンと傾げた女を次の瞬間、俺は掻き抱いていた。

「ひゃ!……や!やだッ!!やめ、……っ、」

腕の中でしこたま動きまわる女は、そこいらの街娘よりも恐らくかなり力が強い。
暴れまわる女のおかげで俺の着物の襟元がはだけ、足元は泥で汚れる。
そんな事は、どうだって良かった。
また、会えたのだ。
なにを言ってやろうと思っていたっけか。
なにを伝えてなかった、と後悔していたか。

「離して!」「やめて!!」「あ、悪漢!」「賊!!」

挨拶くらいしていけ?
勝手に消えるんじゃねぇ?
言い逃げすんじゃねぇ?
違う。
そうじゃ無い。
俺の耳には、ひどく汚い言葉で罵り始めた娘の少し高い声はどうやら入ってこなかったらしい。

「ありがとなァ」

俺がそう、小さく呟くように発せた頃には、腕の中で娘は静かになった。
モゾモゾと、いや、ジタバタともがくのも辞めていた。
と、思ったのが間違いであった。
背負った籠から腕を引き抜いたかと思うと、俺より幾分も低い頭がサッと俺の腕から抜けていった。

「この!醜男ッ!!」
「……は、」

そう思った矢先には俺の足は踏みつけられ、顎下に娘の掌底突きが奇麗にキマっていた。

「……ッ、ぐ!!」

ふらっ、と足元がふらついたのは恐らく縦に頭の中まで揺らされたからだろう。
思わず尻もちをつけた俺から、まるで自分の体を守るように抱きながら「わ、私は悪くありませんからねッ!」などと吐き捨て、去っていった。
それも、まぁ速い速度で。

サッと血の気が引いた。
(俺、何したァ?!)
その後は、もう何も考えられなかった。
やべぇ、やべぇやべぇやべぇやべぇ!

きっと今野菜を拾うことをやめ、追い走ればすぐに追いつくだろう。
そんな事は解っていた。
自分にはその力がある。
だが、追ってどうする。
余計に怖がらせるだけでは無いか。
そう思うと、それすらもすべきではない、と理解していた。

なにしてんだ、と、特大のため息を吐き捨てることしか出来ることも無かった。

これから向かう先も、娘の逃げて行った先と同じ方角である。
粗方の事情を話して、ジジィに後は頼むか。
と、ぼけ、と考え直して娘の落として行った籠を背負い、また山道をひた歩いた。

ジィージィーと変わらず虫の声があたりを包んでいた。

□□□□□

緑が青々と茂る山中の、程深くにあるその家屋は、最早腐っていると言っても過言ではない不気味な色の、古びた扉が嵌っている。
軽くだけ握った手を戸板に叩きつけて「オイ、ジジィ」と呼んでやると、背後からピッと甲高い音が響き、俺はソレを避けるようにサッとしゃがみ込みながら足払いを仕掛ける。
そこにトンッ!と木刀が刺さり、その足へは届かない。
すぐさま頭上に振りかぶられ直している木刀も蹴り上げてやると、俺へと木刀を振りかぶっていた男はニィと嗤った。

「こンの、アホんダラがァ!!」
「ッで!!」

この拳骨は、受けておく事にする。
本気でポクポクと俺の頭を木魚のように叩く男__老人は、何度も頭を叩きながら言葉を吐き捨てていく。
俺を、俺と匡近を育てた育手は、いかんせん手が早い。
邪な意味では無く、叱りながら頭を張り飛ばすような人間だ。寧ろ手のほうが早いかも知れない。
俺と匡近が言葉よりも先に手を出してしまうのは、この育手のせいだったと言う事にしておこうと思う。
多分そうだ。

「いっちども!顔も!見せんで!!」
「ッテェ!……いってェ、つってんだろォ!!」
「手紙の!ひとっつも!寄越さいで!!!」
「わり、……だァから!いてッ!……だァ!!ッオイ!」
「無事を!報せる!事も!せんで!!!!」
「ッダァーー!!叩き過ぎだろォが……ッ」

俺よりも低い位置にある白髪頭が肩に押し付けられ、俺の頭は抱え込まれた。
何度も髪を掻き回され、そのうち馬鹿みたいに優しくポンポンと撫でてきやがる。

「……ようやった」
「…………おゥ」
「茶でも飲め」
「……ン」

やっと家に迎え入れられた俺は、静かに籠を玄関を入ってすぐの土間へと下ろした。

「……名前に会ったか」
「ア?誰だィそりゃァ」
「はて、ソレは名前に頼んだ荷物だと思ったがな」

その言葉に合点がいき始めた俺は、ギュッと顔を顰めたと思う。
框に腰を下ろし、玄関すぐの土間に設えられている厨を行き来する育手から目を逸らした。

「久しく育てた人間は居なかったんだが、あの子はしつこうてな」
「そぉかィ」
「……なんでも、帰る場所も無いから、一人でもやる、って聞かねぇんだ。誰かさんそっくりだろ」
「……誰かねェ」

そのうち米をとぎ始めたジジィに、はやく茶を寄越せと言ってやろうかと舌も打ちたくなる。
恐らく、食っていけとでも言うつもりなのだろう。

「まぁ、豪胆な娘っ子でなぁ」
「……娘……ねェ、」

矢張り、思い違いでもないようだ。
先の娘の顔が頭に浮かんだ。
また、ため息が出た。
なるほど、少しでも体術やらなんやらと、齧っていた訳だ。
ならあの動きにも、足の速さにも納得だ。
なんとなくうっすらと覚悟していたが、間違いではなかった。

「……たァ」
「あー?」

この育手も、口が悪い。
だから、俺の口の悪さもこの育手のせいにしておいてやる。
もう全部ジジィのせいでいいかァ。

「……怖がらせちまって、……落としてったから、拾ってきたァ」
「アイツが怖がったってかぁ?実弥をぉ?まぁさか、鬼でもあるめぇしなぁ」
「……鬼、ねェ」

組んだ足の上に頬杖をつきながらそう俺が言ったところで、ガラッと扉が開く。
俺はチラッとだけ視線をやり、またため息を漏らした。
もうなにも言うまい。

「……」
「……」

あの娘が、開けた扉の向こうで口をパクパクと餌でも求める金魚のように開け閉めして見せる。

「っ、つ、辻捕りィー!!!!」
「ちっげェ!!」
「辻捕りだぁー?!実弥ぃい!!てめぇいつからそんな下らねぇ奴になったぁ!!アァ!!?」
「ってェなァ!殴んじゃねェ!!人違いだった!つってるだろがァ!!!」
「は、初耳よッ!!そんな!言い訳が通じると思ってんの?!!人違いなら別の人にあんな事したってこと?!」

俺をビシッと指さしながらしかつめらしい顔を作る娘に、ぐ、と言葉を飲む。
いや、やめよう。
俺が悪い。
全面的に、俺が悪い。
俺は思い直し、口を開こうとしたところで娘はズケズケと俺の方へと歩いてくる。
どうやら豪胆なのは本当らしい。

「……悪かっ」
「鬼殺隊は、花街も行けないほどに賃金が低いの……?」
「誰が薄給だァ」
「なら、そういう趣味……」
「……てめェ、言わせておけば……表出ろォ!!」
「実弥ぃ!!まずは、謝らんかァ!!!」
「謝ろうとしてたろがァ!!」
「や、やめて!ちょ!暴れないで!!」
「止めてんじゃねェ!」
「ひゃ!」
「……あ、……わり、」
「さぁ、ねぇみィィィイ!!!!」

ジジィの足が当たらないように、とサッと娘を庇うために出した手が、ふにっ、と柔いものに触れた。
なにがどうしてこうなンだ。
ふざけんじゃねぇ。
どうせなら面と向かって揉ませろォ。
違うそうじゃない。

どうやら俺は疲れ切っているらしかった。

「さいってい!!!」

バチン!
綺麗に頬に入った娘の平手跡は暫く消えず、
「飯でも食って、すぐ上の温泉にでも入って来い」そう言って嬉しそうに笑うジジィが言うままに、それなりに騒がしい食事を摂り、手拭いだけを持って山を登った。

「実弥さん、こっちです」
「あ?」
「こっちです」
「てめェ、聞いて無かったのかァ?俺はてめぇの兄弟子・・・だァ。場所くらい解らァ」

そう言うと、「あ、そっか」とでも言いたげな顔を作り、俺の隣へと並び立つ。
飯の時宜に、俺が柱であったこと、鬼舞辻無惨を討ち取った際に、そこに居た事を、育手と、この娘に軽くだけ話した。
その後からだ。
この娘がしおらしくなりはじめたのは。
会ったばかりのお転婆ぶりから一転。こうもしおらしくされると気味が悪い。

「なら、着いてからお世話させてもらおうかな」
「……はァ?」
「お背中。流しますね」

にこ、と口角を上げた娘は暗がりも物ともせずに山をスイスイと登る。

「て、めェ、大概にしろォ……意味わかってんのかァ?!」
「……意味?……背中を流す意味です?労り、じゃ無いですか」
「そうじゃねぇ!男の肌に易易と触るな、つってんだ」
「男の、じゃ無くてですよ、私は実弥さんを労りたい、って言ってるんです。あ、着きますよ。ここ、綺麗ですよね。ここだけ木が生えてないから、空が広がってて、星が降ってきそうで」
「大体、なァにが実弥さん、だ」
「だって、私実弥さんの事実弥さん、って名前しか知りません。教えて下さいよ!どうやって……私の仇を打ってくださったのか。どんな事があったのか。これから、どうしていくのか」
「なんでてめぇに話さなきゃなんねんだァ」

簡易的に作られた脱衣小屋は、それこそ屋根はあるが、あくまでも着物を脱ぐ場所があるだけのものだ。記憶が正しけりゃ、そうだ。
一体どこまでついてくる気だ。
まさか本気で背中を流すとか、言うんじゃねえよな?
と、立ち止まったところで、ふと娘の顔を見ると、矢張りあの陽の光をきらきらと浴びて、笑った女を思い出す。
似ている、なんてものではない。
生き別れの姉妹でもいたか?双子の。
なんて、聞いてしまいたい程だ。

「どこまでついてくる気だァ」
「え、だから、お背中を」

丁度辿り着いたのは、記憶通りのあばら家のようである。
厳密に言うと、蔦が這い記憶よりも更に煤けて見えるから、もう少しだけ、更に傷んでいるのであろう。
俺は娘をその脱衣小屋の外壁に押し付け、挙げ句手を抑え込んだ。

「襲われても文句言えねぇぞ」
「実弥さんにとって、それがお礼になるならそれで良いです。そうしましょう」
「てめ、」
「なんでも、して欲しいことを言ってください!」

俺は多分、据わった目をしたと思う。
スッと指をもと来た道へ向けて指す。

「なら、戻ってろ」
「え、酷いです」
「てめぇがなァ」



ざば、と湯が俺の体積分蠢き、もくもくと上がる湯気は俺の視界を包み込んだ。
ゴツゴツと張り出した岩に後頭部を預けて、空を見上げると、先の娘の言葉を思い出す。

「降ってくる、ねェ……」

ここが、こんなに綺麗だと思ったのは初めてだ。
こんな景色だったろうか。
もっと、翳っていた気がしたが。
そうか、こんなにも荘厳だったか。

「見せてやりたかったなァ」

バシャバシャと音と飛沫を上げながら顔を洗った。
どうにもしょっぱい湯であったが、体が自分でも驚くほどには暖められていく。
ずる、とどうにも湯気に負けたらしい鼻も啜っておくことにした。

そうこうしているうちに、雲が星にかかり始め、そのうちぽつぽつと頬に冷たいものが落ちてくる。

「……上がるかァ」

また顔にバシャっと湯を引っ掛け流し、脱衣小屋で適当に着てきた着物を引っ掛け、足袋も履かずに草履に足を通した。
ガタガタと不穏な音を上げながら戸を開くと、傘をさし、そこに屈み込んでいた娘は俺を見てサッと立上がり、俺に傘を傾ける。

「雨が降ってきたので、迎えに来ました!」

恐らく、この娘はあの女と別人だ。
妹でも姉でも双子でも他人の空似でも何でも良い。
別人だ。
たまたまだ。
客人を放置するには忍びない。
そう思っただけだろう。
恐らくそこに、他意も無いだろう。
わかっている。そんな事は。
だと言うのに、こうもこみ上げるものはなんなのだ。
ふざけんな。
めんどくせぇモン置いていきやがって、一緒に持って逝けよ。
ふざけんな。

何度も胸中で罵ろうとも、今、傘を受け取る際に重なった娘の手が、暖かかった事実は覆らない。
今、この娘が俺の側で「さ、帰りましょう」と優しく微笑む事実は覆らない。
クソ野郎になってしまいそうだ。

「実弥さん、星は見えましたか!」
「あァ、悪く無かった」
「良かった!誰かに伝えたかったんです……!こんなにも綺麗なんです、って!独り占めするには勿体ないじゃないですか」
「こんなに山奥だと人も来ねェしなァ」
「そう!そうなんです」
「……」
「……」

ザクザクと音を立てながら山を下る。
下る、と言っても中腹までも下らない。
すぐそこだ。
ほんのすぐ、そこまでだ。

「もっと寄れ、濡れんぞ」
「……やだ、またあの続きですか」
「はァ?なら傘は俺が被ってきたのも一緒に持って来りゃ良かったろぉがァ……大体、なんだよ辻取りだァ?……ふざけんなァ」
「だ、だって!」
「……」

俺のほんの少し前を歩いていた娘は立ち止まり、少しだけ体を捻り俺を見る。
暗がりだから、よく見えないんだろう。
俺も、見えない。
だから、俺の方へと一歩近付いた事も、何かを言いた気に俺を見ているのも、恐らく勘違いだ。

「とっとと行くぞォ、濡れちまう」
「待ってますしね」
「ン」
「でも、こうして……話してみたくなったんです。あなたと」
「……」
「私、呼吸がちゃんとは使えなくて。結局、本当に気持ちだけで。他にはなにも……出来なかったから、なにかをしたくて。
でも、もう、終わっちゃったんですよ。
終わっちゃったら、何をしたらいいのか、わからなくて。
でも、本当に、本当嬉しいんです!鬼の居ない世界で、こうして露天風呂に入ることが出来るのが。空を見上げる事が出来るのが!」

前を歩く娘の表情は、見えることはない。

「それでも、もう……何をしたらいいのか、わからないから……あなたは、実弥さんは、どうするんですか。」
「……」
「私は、どうしたら良いのか……もう、わからなくて。
居てもいいって言われるけど、……いつまでもここに居る訳にもいかないし…………」

雨が降っている。
ざあざあと、降っている。
ぬかるんだ足元の泥が時折跳ねては、娘の足を、俺の足を汚していった。
娘の方へと傘を傾けながら、俺は静かに口を開こうとしてやめた。

俺は、何を言いかけた。
何を言おうとした。
小さく息を吐き、空を見上げようとして失敗する。
娘の目が、俺を見ていた。
絡まりつくそれを、上手く解くことが出来なかった。

「雨、やみませんね」
「そォだな」

馬鹿みたいに、玄関前で佇む俺たちに痺れを切らしたのか、スパンと音を立てて玄関を開けたジジィは、「ええい!」と唸りあげる。

「気に入っとるなら素直にそう言えぇ!!摩羅ついとるんだろ!!!」
「ば!……なんっつぅ事聞かせてんだァ!!!」
「名前も名前だ!実弥に花なんざ持たせんで良い!ガツンと行け!ガツンと!!」
「やだぁ、酔ってる?やめて下さいよぉ」

ケッ、と吐き捨てるように中に入っていったジジィの背中を追うように入っていく娘の背中に、聞こえないように俺は呟く。

「……名前、」

静かな夜の音にも紛れるくらい。
雨の音に、かき消されるくらいで。
それでも振り向いた名前の目を、俺は恐らく忘れることは無い。
名前は、あの雨の日と同じ顔で、同じように振り返り、同じことを言う。

「ありがとう」

□□□□□

そうして結局「なんでもする」などと言い募り、俺の元へと押しかけてきた名前が俺の子を成すこととなってしまったのには深い理由があるのだ、とあえてここで弁明しておく事にする。

「おい、濡れんぞォ」
「……じゃあもうちょっと寄ってください」
「人使いが荒ェ」
「そうですか?……そうかなぁ」
「……」

傘を名前の方へとできる限り傾ける。
少しばかり膨らんで見える腹に、俺の目は自然と細まっていく。

これで良かったのかどうかなど、わかることはこれからも無いだろう。
恐らく、悩み苦しむ。
ただ、それでも良い。
どこかでそう思っている。

__願わくば
願わくば、
このなんでもない今日が明日も続けば良い。
願わくば、
なにもない明日が、この二人にこれからも続いて欲しい。
願わくば、
明日もこうして、傘を傾けていたい。

「明日は、動くかな」
「そうだと良いなァ」
「……うん。……おじぃさんに、そろそろ報せなきゃ」
「だなァ」

『兄ちゃん、笑ってくれ』
最後にそう締めくくられている手紙を後生大事に懐に入れることは、恐らくもう、無いだろう。
それよりも前にしなくてはならない事が、今、俺には山とある。
以前宇髄の持ってきた洋菓子の入っていたブリキの缶に、俺はそっと、その手紙を仕舞った。

あなたに傘を、
さしてあげたい


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