短編集
あなたに
暫くすると、実弘君のおばあさんの使われていた部屋だったそこには、小さなローテーブルが置かれて、所謂文卓っていうのだろうか。それが置かれていた。
その上に鉛筆と、わら半紙のように、少しすすけた色味の用紙が重ね置いてある。
きっと、不死川さんは私を“ゲンヤ”さんではない。そう理解したはずだ。
きっともうわかっている。
だから私はよくわからなかった。
不死川さんはどうして私とコミュニケーションをとろうとしているのか。
私の存在を許すのか。
「出てけ」と言われてもおかしくはない。
なんなら気味も悪いだろう。
ほんの数か月。
半年も経っていない。
たったそれだけの期間。それも見えていない、恐らく、ユーレイだとか、オバケだとか。一般的にはそう呼ばれるものだと認識しているに違いない。
そんな私に、どうして出て行けと、だとか消えてくれ、だとか。言わないのだろうか。
なぜ、まだここに居ろ、とでも言うように世話を焼こうとするのか。
鉛筆を持って、しばらく大きな家の中をうろついた。
やっぱり、天井が高い。
むき出しの梁の向こうは薄暗く、朝だというのに天井の木目も見えそうにはない。
歩くと、時折軋む板にあたる。
その日は、家中を探したけれど不死川さんは居なかった。
表に洗濯も干していない。
朝ごはんの支度も無い。
ふ、と怖くなった。
不死川さんは、このまま居なくなってしまうつもりなんじゃないか。
不死川さんは、ゲンヤさんに会いに行ってしまうのではないか。
彼を、私は知らない。
開け放たれた門から出ようとして、私はふ、と立ち止まった。
私は彼のことを何にも知りはしなかった。
たった数か月。
けれど、毎日不死川さんといた。
毎日、毎晩。眠ることの出来ない不死川さんに寄り添うように縁側で、隣に腰かけていた。
それで、時折うたた寝をして魘される不死川さんを見ていた。
何をするでもなかったけれど、そうやって確かに私は彼を知っていっていた。
なのに、一つとして慰めの言葉を吐くこともできない。
私は、不死川さんが今、どこに行ってしまったのかもわからない。
知ってるつもりなだけで、何一つとして、本当は知らないのだ。
思わず立ち尽くして、開きっぱなしの門の向こう。
ただ外壁に切り取られた空を見上げた。
違う。見上げようとした。
視界の端で、黒々とした髪がなびいている。
私の、ではなかった。
私は髪を染めているし、何よりもっと、多分、バササッてなる。そんなことを考えながら、右側へと視線を顔ごと向けたら、不死川さんと同じ、それこそ実弘君とそう変わらない背丈の黒髪ソフトモヒカンが立っている。
「…………ヒェっ」
二歩、彼から遠ざかってみる。
とはいえ、もともとそれなりに距離は開いていた。恐らく、……恐らく、だが一メートル、は言い過ぎた。少なくとも片腕を伸ばし切っても当たることは無い、ってくらいの距離。
遠ざかるのと同時、私の片足が門の向こうに出た。
と、思ったのだけれど、門の向こうに私の足はない。
「は?!ちょ!!」
慌てて中に引き返し、私は目を白黒させた。
「え、ちょ、……は?……え、えぇ、」
手を向こうにやると、やっぱり、なくなる。
けれど、家の敷地内に戻ると、腕はやっぱり生えている。
後ろを振り返ると、慌てていたのか、私に触れようとしていたらしい少年の手は、私の胸元を貫いている。
グロテスクな感じのアレとかじゃなくて、なんていうか、こう、透過してる。
私はゆっくり立ち上がって、左手に鉛筆を握りしめたまま、小さくペコッと、素早く頭を下げ、じ、と少年と青年の間くらいの少年を見据えた。
警戒をしている、っていうよりも、なんていうか、とにかく「この子目を離せないなぁ」みたいな心境の方が強いかもしれない。
そっ、と赤い顔を手で覆うようにして隠した彼は、その状態のまま、指を少し開き、その隙間から私を見てペコ、ペコペコ、と幾度か頭を下げた。
「……は、じめまして」
一応挨拶をするものの、彼の口はパクパクと動くけれど、音が出ることはない。
あぁ、と察して、鉛筆を差し出すけれど、上を向いた彼の掌の上に乗せたはずの鉛筆は地面に落ちた。
「…………ま、マジのお方ってこと……?」
え、お昼ですけど。
またペコ、と顔を隠して頭を下げた少年が段々といたたまれなくなってきた。
「……と、とにかく座りません?……立ち話も、なんか、あれだし」
一度頷いた少年は、静かに私の後ろを歩いた。
□■■■■
ぼう、と二人で人三人分くらいの隙間を空けて縁側に腰を下ろす。
二人って言っていいのかとか、もうわかりはしないんだけど、とにかく、私と少年。
「あの」
聞こえていなかったらしいから、少しだけ間を詰めて、もう一度私は口を開き直した。
「あの!」
慌てて私の方を向いた少年は、一度小さく頭を下げるみたいに頷く。
「……名字名前、です」
またぺこ、と頭を下げた後に彼は口を開く。けど、やっぱり聞こえることはない。
私は首をひねりながら、
「不死川さんの、お知り合い、だったりします?」
そう尋ねた。
そうしたら、彼の眉と目の間が一気にパっと広くなって、ウンウンと頷く姿が見えた。
「…………もしかして、もしかしてだけど、“ゲンヤ”さん?」
彼は今度は立ち上がって、ウンウンと頷いた。
私は、また口を開こうとして、出来なかった。
言葉が、出なかった。
不死川さんの気持ちとか、ゲンヤさんの気持ちとか。
考えたら、胸が苦しい。
どんな気持ちになる、とか。もうわからないんだけれど、もしも。もしも、だ。
私の弟が、仮に死んでしまったとして。
私は、すごく負い目を感じているとして。
すごく、悲しい思いをしていたとして。
その弟が、私を見守っている、として。
成仏することなく、彷徨っている、として。
「……あの、……ゲンヤさん、……その、やり残したことが、あるん、ですか」
ゲンヤさんから、視線を今度は逸らさずに私は聞いた。
今の私なら、きっと、不死川さんに伝えられるからだ。
この、悲しい兄弟の間にある何か隔たり、だとか、想いのこしを、もしかしたら。もしかしたら、私が叶えられるかもしれないから。
もしかして、もしかして。
私がここに来たのが、そのためだったり、したりするんだろうか。って。
ゲンヤさんは、大きく目を見開いてから、眉をハの字に大きく下げて歯を見せて笑った。
それから大きく口を開けて、何かを伝えようとする。
「…………???あ?い?い?……ちょ、ちょっとまって、……え、違う?お?い?い?あ?む??」
うそだ。
何もできないかもしれない。
「……ご、ごめん……もういっかい」
何度も何度も聞き直して、私は思わず飛び上がった。
「!わかった!!あにき!!あにきね!?おにいちゃん!!うんうん!不死川さんの事だ!!!そっかそっか!わかった!」
私の言葉に、ゲンヤさんも大きく頷き、嬉しそうに手を叩いて笑う。
「次いける!……い、お?……い、そ?………………やばい、やっぱわかんない」
「?え、あ?い?……えあい、えあい……え、あ、……み?あ!てがみ!!手紙か!……いお、手紙……!遺書!!遺書ね!!」
「やだ!私天才かもしんない!うんうん!」
ゲンヤさんと、何度も何度もそうやって繰り返していたらそのうち日が暮れてきて、ぶあ、と吹いた風が木の葉を揺らす音を私は聞いてた。
□□■■■
「そっかそっか、……ゲンヤさんは遺書を見てほしいんだ。……そうしたら、成仏?でいいのかな?行けるってこと?」
ぶんぶん、と首を振るゲンヤさんの姿を見て、首をかしげる。
「……わからない、ってこと?あ、そっか、わかんないですよね。私もどうしたら帰れるかわからないし、一緒ですね」
困ったみたいに笑う顔は、どこか実弘君に似ている。
「あ、そういえば、不死川さんの声は聞こえてるんですか?そ、っかぁ、……聞こえてないんだ」
「ん?姿は見えてるの?……見えてるんだ。……そりゃそうだ。じゃなきゃこんな会話もないよね、はは」
体を私の方に向けて、体の前で足の裏をくっつけたそこを弄ぶように掴み、笑うたびに前後に体を揺らす。
そのしぐさは、実弘君とは似ていないかもしれない。
「私、不死川さんからあなたのことをちょっとだけ聞きましたよ。……スイカを、お腹壊すまで食べてた事とか」
と言うと、彼は顔を真っ赤にしてぷりぷりと怒る。
「あは、……あとね、なんだったかな。不死川さんと喧嘩したときに、スミちゃんを盾にするんだ、って、んふ、もう、怒らないで……ふふ、あとね、……誇らしい弟だって、聞いたんだよ」
ぴた、と、動きを止めたゲンヤさんは、大きく息を吐き出してから、眉をまた大きく下げる。
嬉しい、とかじゃなくて、なんかこう、懐かしむような。どこか、寂しい、とでもいうみたいな。
そんな顔で笑ってから、そ、っと顔を隠して肩を震わせた。
「私、聞いちゃダメなんだろうな、って、思ったんだけど……ごめんなさい。」
不死川さんのあの日の問いは、ゲンヤさんに聞かなかった。
きっと、私が聞くべきことではないし、私が間に入ることではないと思うから。
あの手紙に、それは全部詰まってる。
だって、ゲンヤさんを知らなかった私がそう思ったんだ。
不死川さんなら、もっと感じる。
もっとわかる。
だから、「幸せか」って、そうゲンヤさんに問いかけた不死川さんは読まなきゃ駄目だ。
そう思う。
「絶対に、読んでもらえるようにする」
私の言葉に、うんうんと顔を隠したままで、肩を震わせて頷くゲンヤさんの背中を撫でることができないのが、不死川さんとご飯を食べられないことよりも、ずっとずっともどかしかった。
ずっとずっと、寂しかった。
どこかで、この二人が笑いあえるようになれば良いのに。
そう願った。