短編集
ぽつぽつ、ぱつぱつ
私は一向に帰る手立てを見つける事も出来ないままに、早くも一月が過ぎようとしていた。
一月、というのもあくまでも日の入りと日没を数えてそう思っただけだから、今が何月であるのか、何日なのか。月は変わったのか。そう言ったところは実のところ分からない。
それよりも、例の「宇髄さん」がやってきたあの日から、また「不死川さん」は静かに空を見ている。
その手から片時も離れることの無いその手紙はただただ日を追うごとに皺を刻んでいく。
あんまりにも真ん中に皺が寄って行くものだから、「可哀相。放してあげて」なんて生意気な事を言ってしまいたくもなるのは秘密だ。
読まれることも無く、ただ静かに皺を刻んでいくその手紙が、なんだか哀れに見えてしまうのだ。
けれどそれと同じくらいに、その手紙に並々ならぬ思いを馳せている事がわかる背中に私は口を出すつもりにはなれない。
「不死川」と呼ばれたその人は、静かに佇んだかと思うと時折納屋に入り、取って来た木刀を振り回し、縁側で空を見つめながら刀の手入れをする。
最初こそ刀を持ち出した事に私は飛び上がるくらいに驚いたものの、それが日常になると特に驚くことも無くなった。
この「不死川」と呼ばれた実弘君にそっくりな男の人の動きに変化が出始めたのは、それこそつい最近だ。
宇髄、と呼ばれていた人が来てから、それこそ二週間程経ったのかな?という頃合いに、世にも奇妙な事にカラスが手紙を運んできたのだ。
不死川さんは、その手紙はその場で静かに読んで、その数日後にもう一度同じようにして手紙が届くと、ほんの少しだけ、目元を和らげてそれを眺めていた。
まさかそんな手紙の中身を見る事はしたくは無かったのに、「ふは、」と、間の抜けた音が
「え、なんて?何が書いてたんですか!」そう何度だって尋ねたのに、やっぱり言葉が届くことは無いのだから、仕方が無かった。
そう思って貰いたい。
幼い子供が描いたかのような絵がおさまる紙と、大きくしっかりとした文字で書かれた文章から、複数人からの頼りなのだとわかる。
「良いですね。……やっぱり手紙って素敵だな。……帰ったら実弘君にも書いてみようかな」
そう呟いてから私も同じように空を見上げた。
ゆっくりと流れていく雲が、風がのんびりと流れていることを教えてくる。
いつもなら「早く帰れたらなぁ」「一秒でも早く帰りたいなぁ」なんて考えているというのに、今日、今ばかりはこのままでも良い。
そう思えたのは、偏に一月ほど経って初めて彼の笑顔を見る事が出来たからかもしれない。
不死川さんは、静かに手紙を元の通りに畳みながら「なァ」と声を上げた。
きょろきょろとあたりを見渡してみるも、私以外にはここに誰もいない。
まさか不死川さんの独り言にしては「なァ」は違う気がする。
「……居るんだろォ」
まるで追い打ちをかけるかのように不死川さんはもう一度私に声をかけた。
とん、と床を一度だけ叩くと、不死川さんは大きくため息を吐きながら頭を抱えた。
やっぱり、返事をしない方がよかったのだろうか?それともやっぱり日中はどこかに行った方がいいのかな?そう思い始めたところで、不死川さんはもう一度口を開く。
「いつから、居たァ」
「えぇ、……いつから……一月くらいかな……え、どうやって答えればいい??ちょ、わかんない……」
迷った挙句、不死川さんの腰かける縁側直ぐの庭へと降り立ち、指先を砂地に付けた。
「……やっぱ良ィ……聞いちまったら……後悔しそうだァ…………」
「……そ、そんなにぃ……?」
地面に文字を書くのをやめ、立ち上がり直したところで、また不死川さんの声が響いた。
それは酷く切なげに揺れていて、この人からの言葉だ、と理解するのに私はしばらくの時間を覚えていて、その言葉の意味を考えてからもやっぱり答えるのは難しかった。
「……玄弥、かァ?」
だって、そう聞くってことは、そのゲンヤさんって、亡くなってるんでしょう……?
私がそうだと答えたところで、彼になにかゲンヤさんであると示せるものは何一つとして無い。
違う、と答えたら。今「もしかしたら」と不死川さんが希望を持っているのだとしたら。
不死川さんは静かに立ち上がり、顎をしゃくりながら奥へと入っていく。
もしかしなくともついてこい、ということだろうか。
そうやってあたりをつけながら私は不死川さんの背を追いかける。
奥まった一室。
私の記憶違いでなければ、そこは実弘君のひいおばあさんが手を合わせていた仏間であったところだと思う。今はお仏壇どころか遺影の一つもない。
襖を開けて立っている不死川さんは
「ここで寝ろ」とつぶやくように言う。
ここにきて一月ほど経つが、眠気が襲ってきたことなどが一度もなければ、お腹がすいたこともない。
恐らく必要ではないのであろうけど、こうして優しくされるのは、なんというか、うれしいものだ。
更に言うと、実弘君と同じ顔でしてくるのだからずるい。
安易にときめいてしまう。
ありがとう、という代わりに、すぐそばの壁を一度だけ、軽くたたいた。
「……………………………………やべぇ……俺、会話しちまってる……」
不死川さんはそっと顔を両手で覆ったけれど、今回ばかりは触れないことにしておく。
いや、触ることはできないのだけれど。
□□□■■
それから不死川さんは毎日、縁側に自分のものと一緒に湯呑をもう一つ、置いてくれるようになった。
一度、飲めるか試してみようか。なんて思ったものだから、湯呑を持ち上げた。
持ち上がった。
傾けた。
傾いた。
口を当ててみた。
唇に当たった。
けれどそのお茶は、バシャシャ、と音を立てて床に飛び散り、そこには水たまりと目をこれでもかとかっぴらいた、実弘君よりもずっと怖い顔をした、まぁ、厳密に言ってしまうと、血走った眼をこれでもかと見開き、猫の虚無顔に果てしなく近くなった不死川さんの顔があったものだから、それ以降は湯呑を弄ぶだけにとどめるようにしている。
不死川さんは、私をゲンヤさんだと思っているのか、たまに、ほんのたまに、ぽつぽつと言葉を落とすようになっていた。
私は湯呑をくるくると手の中で弄ぶようにして、ほんの少しだけ存在をアピールするみたいにしながら話しを聞く。
「お前だけ、兄弟ン中で俺の字使ってんだろォ」
俺が決めたんだぜェ。
そう言いながら、不死川さんは口角を上げた。
「碌に字も書けねェが、……自分のと、お前の名前だけはちっせぇ頃に練習しててよォ……」
そう言いながら、不死川さんは空に向けて小指をついついと動かしていく。
私の手元で揺れている湯呑を見てから、不死川さんは長い睫毛を揺らして優しく微笑んだ。
「……産まれてすぐの、てめェを抱くのは、幼ながらに怖くてよォ。すぐに抱けなくなんだもんなァ……もっと抱いときゃァ良かったぜぇ」
クツクツと不死川さんの喉が転がるような音が、白みがかり、まだ少し寒そうな空の下で響く。
話しの中で、段々と露わになっていく"ゲンヤ"という人間の存在に、私は思いを馳せた。
「腹下す程スイカ食ってたのに、いつの間にか下にも分けられるようになってっし。
弘の名前決める時も、お前『俺が決める』って聞かねぇから、おふくろも参ってたんだぜェ」
不死川さんは、また前髪を握り込んで、少しばかり乱しながら「気付いてたかァ」なんて言う。
「……お前が、喧嘩して帰ってきた日、あったろォ」
そう言いながら、不死川さんが押さえた胸元からクシャ、とした乾いた音が響く。
きっと、あの最初の手紙だ。
なんとなく。
なんとなくだけど、わかってしまった。
「あん時、おふくろが謝りに行かなきゃならねぇはめになってたろ。だからお前のこと叱ったけどよォ。
……寿美が意地悪されてたの、庇ってたんだってなァ……後から寿美に『玄弥兄ちゃん叱らないで』つって、怒られたんだぜェ」
息を飲み込んでいる音が、風の音と同じくらいに、響いている。
「俺も、お前の話しを聞きゃあしてなかったが、……今なら、褒めてやれる。」
「自慢の弟だ、って、言えっから……」
「なんで、……てめぇ……」
不死川さんの声が小さくなって、そのうち聞こえなくなった。
息を吸う音だけが、響いている。
私は絶対にそっちを見ないようにだけつとめて、湯呑を少しだけ、揺らす。
「お前が……生きててくれりゃァ、そんだけでよかったんだァ」
「できれば、嫁さん貰って…………クソッ……」
ほんの少し。
ほんの少し、視線だけを動かす。
そうしたら、不死川さんの視線と、私の視線が交わった、気がした。
絡んで、まざった、そんな気がした。
「なァ、幸せだったかよ……」
不死川さんの声は、ひどく震えている。