短編 鬼 | ナノ

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初恋 5

夢中になっていた。_と思う。
だから、肝心の、もうやめる、それが言えなかった。
言うのを忘れていた、否__言いたくなかったのか。
もう、定かではない。ただ、名前のもとに、もう一度行かなければ、と。そんな馬鹿げたことを考えていたのを、覚えている。

貝殻を一等喜んでいた事を、思い出した。
切り株に腰かけて、「潮の匂い」と、嬉しそうに着物の袖口にしまい込んでいたそれを顔までもっていき、幾度も匂いを嗅いでいた。
幼子のようなその仕草に、こっそりと笑ったことを覚えている。


我ながら、意地が悪いかもしれない。
そう、思いはしないでもない。
浜まで、足を運んだ。
目についたものを、片っ端から拾い上げて、「ちげぇ」と、しっくりこない、と放った。
あの時は、直ぐにこれ、と手に取れたのに、だ。
これしかねぇ、と手に持ったのは、蛤。
ころん、と手に転がったそれを、爽籟が運ぶのは難しいかもしれない。それでも興味深げに肩に停まり、頬をつついてくるコイツならいけんじゃねぇか、とどこかで考えた。

元気に見えたから。
だから、もしも叶うなら、この世界とは遠く離れたところに居るあの女くらいは、幸せになっても良いじゃねぇか。
そう、思ったのだ。
願ってしまった。
クン、と嗅ぐと、なるほど、磯の香りがする。
__良い、香りかァ?とは思うけれど。
ざぁ、と音がして、足元を濡らしていく。

自分の足の横に、名前の頼りない足が立っている。
そんな想像をしてしまう。
目出てェ頭だな、とため息を吐きながら、ぼう、と水平線を見ていた。

また、日が暮れる。夜が来る。
その前には、ここを発たなければ。

ざぁ、と、また足元が濡れていく。

自分には分不相応な事は願わない。
だからせめて、名前には、人並みの幸せが、あらんことを。
匂いを嗅ぐふりをして、手のひらに収まるほどの小さな願いに口付けた。



『ありがとう。香袋から藤の香りがすると、あなたを近くに感じます。』

帰ってきた手紙の言葉に、ケッ、と口から音を漏らしていた気がする。
その時から、俺は確かに藤の香袋の匂いを嗅ぐのが癖になったように思う。
その度に手のひらが焦げたように痛んでいた。
それが不快でないのだから、繰り返してしまうのだ。

俺よりも、前から柱を務めていた男が死んだ。なんてことはない。人を庇ったそうだ。
その一隊士よりも、自分の命の方が価値があることを知った方が良い、なんぞという奴もいたが、俺はそれに首を縦に振ることは出来ない。
確かに、そうなのかもしれない。
命の価値に差がない、なんてことはない。
けれどそうではない。
そうではないのだ。
きっと、皆だ。鬼殺に生きる俺たちは皆、どっかで死に場所を探してる。
そういう、死に方生き方なのだ。
その思いが、強い物が生き残ってしまうのだ。死ぬことを、厭わないから。_そう言う事だ。
その日、どこかで上がる、白い煙を見ていた。
誰かを弔うためか、ただの野焼きか。
そんな事は知らない。
どうだっていい。

それでも、あの呂色の髪を揺らしてこちらを振り返る顔を見たように思えた。
だから、なのか。

また、会いに行ったのだ。
然程、経っていなかったと思う。
然程、経っていなかったから、またあの石畳を、何を考えるでもなく踏んでいた。

とんとん

もう、音が帰ってくることは無かった。
一目、と願ったあの姿は、もう見ることは叶わなかった。
遅かった。
もう何もかもが終わっていたのだ。
__何も、持ってこなくて良かった。
どこかでそんなくだらない事を考えていた記憶がある。

暫く、あの切り株に座っていた。

__丁度良かった。
もう、やめると言いに来たのだから。
言わずに済んだ。名前も、俺の見捨てると同義の言葉を聞かずに済んだ。
何も、悪いことばかりではないだろう。

その場を後にしよう、と立ち上がった時だった。

「あ、あの!!」

名前の物よりも、ずっと力強い女性の声。名前の母親の声だった。
振り返ると、そこにはやはり壮年の女性がいる。

「ああ、やっぱり!」

ぱたぱたと、こちらにやってきたかと思うと、

「お茶でも、飲んでは行かれませんか」

眉を目いっぱい下げていた。

「……いや、もう帰ります」

目に、ぐ、と力を入れたのを、どうか気付かないで居て欲しい。そう、思う。
蝉の音がする。
力強い、誰よりも力強い音だ。

「なら、少し、少しだけ、待ってくださいませんか」

またぱたぱたと、今度は母屋の方に入っていき、程無くして戻ってきた。

「あの子、ずっと、笑っていました。……ひょっとしなくとも、あなた様のおかげですね。幾度も、足を運んでくれていたでしょう。
本当に、ありがとうございます。あの子は、あなたに出逢えて、きっと幸せでした。」

そ、と持ち上げられた名前の母親の両手に握られたそれは、今までで一番大きな紙で。
こんなもん、鴉じゃ運べねェだろぉがァ。__笑い飛ばしてやりたくなった。

名前の母親の前で、文通の真似事のようなそれを見られるのは、どこか決まりが悪い。別段、悪い事をしているわけでは無い、と思うが、いかんせん、相手は病人で死期が近いものだったとはいえ、嫁入り前の娘。
やましい事等、決してない。
そこまでにも至るほど、お互いを知らない。
俺は名前の歳すら、アイツは俺の、名前すらも知らないのだ。
やましい事などはない。そういうよりも、見せる方が早いだろう。
別に、名前の母親に何か言われたわけでは決してない。けれど、勘違いをされたくはなかった。
アイツは、綺麗な人間だと、知っていて欲しかった。
だから、その場で早々に開けることにした。

受け取った紙を、開いていくと、ぽと、と。
地に真っ赤な折り鶴がおちた。
名前に贈り物をするのは、字の書けない自分がする事だった。
本当なら、この世界には、こんなに美しいもので溢れている、と伝えてやれれば良かったのだろうに。
もっと渡せるものなど、他にあったろうに。
彼女に興味を抱いてしまったのが俺だったばかりに、それを受け取ることも出来なかったのだ。
匡近だったら、こうじゃなかっただろう、と思う。

その折り鶴を拾い上げて、名前の母親に渡そうとしたけれど、遂に彼女はしゃくりあげてしまった。
う、ぅぅう。と、頽れるように地に膝をつきそうな名前の母親を、いつか名前の腰かけていた切り株の上に座らせる。
蝉の音が、煩い。

汗が、垂れている。
頬にも、垂れてくる。
酷く、暑かった。
もしかすると、ここ数年で、一番暑かったかもしれない。
もしかしなくとも。
だから、こんなにも汗をかいているのだろう。
名前の母親も。
俺も。

「持って、いてあげてくれませんか。……ご迷惑で、なければ。勝手で、ごめんなさい」

『ありがとう。今夜は、星が一等瞬いていて綺麗。あなたも、どこかで見ているかしら。』

いつもよりも、幾分か大きく書かれた文字が踊る、恐らく名前のさいごの手紙になったのであろうこの手紙は、多分、この母親には見せない方が良いだろう。と、思う。
俺以外が見るのは、きっと良くない。
どこかでそう思った。
多分、この今までに無いほどの歪な文字が、そんな中でも綴ろうとした彼女の気持ちすべてが、ここに詰まっていた。

青青とした空には、星どころか、月も見えやしない。

蝉の音が、遠くで響いている。



手紙の中に綴られていた景色は、俺にはとうとうわからなかった。




燃えていく。
くゆる火の中で
ぜんぶが、燃えていく。
たったの三度見ただけの、名前の呂色の黒々とした髪を誇らしげに揺らす後ろ姿が。
笑った時に覗く歯は、犬歯が発達していたのを覚えている。
燃えていく。
磯の香りも、あれだけ強かった藤の香りも。
熱さも。
今ここにある、全部を抱え込んで
燃えていく。

真黒い煤だけを遺して、
赤く染まり始めた空に
真白な煙が溶けて
消えていった。

もうじき、夜が来るだろう。
今から、もう少し待てば、
星も見えるのだろう。

俺は桶に溜めた水を、煤にたっぷりとかけ、すべてを消し去り静かに目を閉じた。

              fin


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